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平惟仲から見た宇佐神宮
長保3年(1001年)にかつての同僚で大宰大弐を勤めていた藤原有国の後を受けて、中納言兼務のまま大宰権帥として大宰府に赴任した。ただし、黒板伸夫の研究によれば、実際に任じられたのはそれよりも格上で当時は親王しか任じられなかった大宰帥であったとされる。赴任後、歴代の権帥や大弐が手を焼いた宇佐神宮の神人達の支持も取り付けるなどの行政手腕を発揮した。長保5年(1003年)には従二位を叙される栄冠に浴する。しかし、宇佐神宮宝殿を封じたことが元で宮司に訴えられ、寛弘元年(1004年)の12月に大宰権帥を解任された。その後病に伏し、翌寛弘2年(1005年)3月14日に大宰府で薨去。享年61。この後、荼毘に付された惟仲の遺骨を弟の生昌が大宰府から都に持ち帰ったという。(平惟仲 フレッシュアイペディアより)
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緒方惟栄から見た宇佐神宮
宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ。治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、養和元年(1181年)、臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。(緒方惟栄 フレッシュアイペディアより)