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大井手堰から見た宇佐神宮
山国川を利用した沖代平野の灌漑の歴史は弥生時代にまで遡ると考えられるので、以後その時々に井手(堰)も築かれたであろうが、「大井手」と称される大規模な堰の造営は平安時代末の保延元年(1135年)に当時の在地有力者である湯屋基信他の主導下で初めて行われとされ、その際にお鶴と市太郎という母子が人柱になったと伝える(下節参照)。その真偽はともかくも、当時の大井手周辺には宇佐神宮の社領と下毛保(しもつみけのほ。得善保とも)と呼ばれた宇佐宮神宮寺である弥勒寺の寺領とが展開されており、伝えに現れる湯屋氏が宇佐宮の神官宇佐氏の流れと伝えている事から、大井手築造には荘園拡大を意図した宇佐宮による開発の動きがあって、それを背景に湯屋氏が開発領主として井手築造に当たったものと推定される。(大井手堰 フレッシュアイペディアより)
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大井手堰から見た宇佐八幡宮
保延元年(1135年)、この地区の山国川の堰は度重なる洪水で決壊し、農民は困り果てていた。当時沖代平野を治めていた湯屋弾正基信・宮永左兵衛義成・万田左京盛堯・藍原(相原)内記有之・中殿八郎兵衛国直・一松(ひとつまつ)六郎兵衛清氏・小畑四郎右衛門宗重ら7人の地頭が改修工事に取り掛かったが、予想外の難工事で失敗の連続であった。そこで湯屋基信が人柱を立てることとを提案し、7人の地頭も同意したものの、今度は誰もが自分が人柱になると主張した為に結論が出ず、各々の袴を山国川に流して最初に沈んだ袴の持ち主を人柱にすることと定めた所、基信の袴が最初に沈んだので基信が人柱になることとなった。発議者であり人一倍責任感の強い基信は、自ら人柱になろうと予め袴に石を縫い込んでいたという。基信が人柱となるべく身を清めていた所、基信家臣の古野源兵衛の娘お鶴とその子市太郎が、主人を人柱に立てることは出来ない、自分たちが身代りになると申し出、初めはこれを拒んだ基信も遂にその熱誠に負けて承諾し、8月15日にお鶴と市太郎母子は白無垢に身を包み、山国川に入水した。2人が入水した時、川底から2羽の金色の鳩が飛び立ち宇佐八幡宮を目指して飛んで行ったので、人々は両人の霊を鶴市八幡社に合祀するとともに、自ら犠牲となったその精神に発奮して時をおかずに壮大な堰を完成させたと伝え、毎年8月の最終土曜日・日曜日に斎行される鶴市花傘鉾神事(大分県指定無形民俗文化財)は母子の霊を弔い豊作を祈願する神事とされる。(大井手堰 フレッシュアイペディアより)
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大友宗麟〜心の王国を求めてから見た宇佐神宮
地元・北九州での関心は高く、大友宗麟とは縁の薄い福岡県でも18%に達している。大分県の臼杵磨崖仏や宇佐神宮等の名所がロケ地に使われた。(大友宗麟〜心の王国を求めて フレッシュアイペディアより)
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行教から見た宇佐神宮
出家前の半生はよく分からない。大安寺で法相・三論・密教を学び、また日本天台宗の祖最澄の師行表や、真言宗の宗叡に師事したともいう。天安2年(858年)真雅の推挙により、藤原良房の外孫惟仁親王(のちの清和天皇)の即位を祈祷するため、九州の宇佐八幡宮へ派遣されることとなった。しかし、親王がまもなく即位したことから、翌貞観元年(859年)改めて天皇護持のため宇佐八幡宮に90日間参篭した。このとき神託を受け、翌貞観2年(860年)宇佐八幡宮から山城国男山の護国寺に八幡大菩薩を勧請して石清水八幡宮を創建した。貞観5年(863年)には伝燈大法師位に任じられた。(行教 フレッシュアイペディアより)