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高木時夫から見た安藤優也
浦和高校時代はサッカーをやっていた事もあった。高校卒業後は日本大学へ進学し、東都大学リーグでは在学中3度の優勝を経験。宮田征典とバッテリーを組み、1959年秋季リーグの優勝に貢献。リーグ通算31試合出場、73打数20安打、打率.274、0本塁打、6打点、ベストナイン1回受賞。大学同期に会田豊彦・黒木基康(大洋)・笹木士朗(日本鋼管)らがいた。大学卒業後は富士製鐵釜石に入社し、1961年に常磐炭砿の補強選手として都市対抗に出場。同年のシーズン途中に中日ドラゴンズへ入団。1964年には小川敏明とレギュラーを争い、83試合に出場。その後は新宅洋志と共に木俣達彦の控え捕手として活躍。1968年には1年だけ二軍コーチを兼任し、1969年からは選手専任に戻る。1969年5月5日の広島戦(福井)では星野仙一とバッテリーを組み、初勝利をアシスト。1972年からは一軍コーチを兼任し、一軍出場の無かった1974年に引退。その後は中日の一軍バッテリーコーチ(1975年 - 1977年, 1979年 - 1980年)・二軍バッテリーコーチ(1978年)・スカウト(1981年 - 1991年)を務め、スカウト時代には当時無名だった山本昌を獲得。1992年からは母校・日大の先輩である田宮謙次郎の招聘で阪神タイガースに移籍し、編成部スカウト(中部地区担当)を務めた。阪神では舩木聖士・安藤優也・上坂太一郎を獲得し、定年後も2001年まで務めた。星野が監督に就任した2002年からは嘱託で球団広報(課長待遇)を務め、2003年限りで退団。(高木時夫 フレッシュアイペディアより)
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シェーン・スペンサーから見た安藤優也
メジャー時代同様に左投手に強く、同年に放った本塁打9本中3本がヤクルトスワローズの藤井秀悟からのものだった。7月22日の対ヤクルト戦(阪神甲子園球場)では藤井-五十嵐亮太-石井弘寿の投手リレーに対し、チームがわずか3安打1得点と抑え込まれる中で、その1得点はスペンサーの本塁打によるものであった。8月21日の同カード(明治神宮野球場)にはチームが藤井に5回まで1点に抑えられる中、6回まで好投していた安藤優也の代打で出場してレフトスタンドへ値千金の8号2ラン本塁打を放った。試合後に藤井との相性を尋ねられた際には「たまたまだよ」と謙虚に答えている。また、9月4日の対横浜ベイスターズ戦(札幌ドーム)では相手先発の土肥義弘相手に2安打1得点と攻めあぐねていたが、この2安打1得点はすべてスペンサーのバットから生まれたもので、延長10回に入ってからも犠牲バントを試みるなど、チームの勝利に対する熱意を見せた。(シェーン・スペンサー フレッシュアイペディアより)
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2010年の日本プロ野球から見た安藤優也
3月26日 - 阪神対横浜戦(京セラドーム大阪)で阪神の安藤優也が球団史上初の3年連続開幕投手。試合は阪神が勝利し、横浜は球団ワースト記録の開幕戦7連敗(2010年の日本プロ野球 フレッシュアイペディアより)