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  • 寺原隼人

    寺原隼人から見た杉内俊哉

    4月18日、対大阪近鉄バファローズ戦でプロ初の完投勝利。前試合までの杉内俊哉・新垣渚・和田毅に続いての完投勝利を挙げ、球団初となる4試合連続完投勝利を記録した。前半戦に6連勝を記録するなど、チームの快進撃に貢献。斉藤和巳(Saitoh)、和田(Wada)、新垣(Arakaki)、寺原(Terahara)の4投手のローマ字頭文字を取って「SWAT」というグループを結成していた。ネーミングは、当時公開された映画S.W.A.T.に由来。球団が4人を若手先発投手陣を売り出そうとしただけで、4人が揃って何らかの活動を行っていたわけではないが、4投手に因んだメガホンやポスターなどがホークスグッズの新ブランド「SWAT」として、福岡ドームやホークスグッズ専門ショップハリーズで販売されていた。7月にはローソンの企画で九州出身の選手を県別に分けて、各県の名物を具にした「ホークス応援おにぎり」が発売された。宮崎県は「チキン南蛮おにぎり」で寺原を応援していた。横浜移籍前まではあまり知られていなかったがパスタも好物の一つで、ローソンのホークス応援弁当で「寺原の好物はナポリタン」と紹介されていた。また、2002年から2003年にかけて、日刊スポーツ九州のホームページに「寺原日記」が設けられ、ほぼ毎日更新されていた。内容はピッチングに関することから、プライベートに至るまで、率直な言葉で書き綴られており、好評を博していた。しかし、その後は故障に苦しみ7勝5敗に終わり、同年の日本シリーズでの登板機会はなかった。 12月8日に高校の1年後輩の女性と入籍した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た山本省吾

    からは再び先発に復帰したが、2度の怪我に泣いて13試合の登板で2勝に終わる。3月9日、登録名を「寺原 早人」に変更することが発表された。“早人”にした理由は「球が速くなるように」「一番早く80勝できるように」などの説がある。しかし5月4日の対広島戦で右肘に違和感を覚え降板。その後戦線離脱し復帰後は右肩を痛め戦線離脱した牛田成樹の代役セットアッパーを務めたが、打ち込まれたり、故障再発で戦線離脱の繰り返しで20試合の登板で4勝に終わった。2010年12月5日、高宮和也と共に山本省吾・喜田剛との交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍。登録名を「寺原 隼人」、背番号をダイエー・ソフトバンク在籍時代の「20」に戻し、およそ5年ぶりにパシフィック・リーグのチームに復帰した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た松坂大輔

    3年夏の全国高等学校野球選手権宮崎大会の3回戦(7月18日・対日南振徳商戦)でノーヒットノーランを記録。予選決勝(7月25日・対宮崎日大戦)では完投で勝利投手となり、日南学園を3年ぶり3度目の甲子園出場に導く。第83回全国高等学校野球選手権大会の2回戦(8月16日・対玉野光南高戦)では当時最速となる154km/hを記録。この時、ボストン・レッドソックスのスカウトの速度計は98マイル(約157.7km/h)を示した。この一球について寺原は、球が外に大きく外れたこともあってか「あれはスピードガンの狂いでしょう。あの試合は体調も万全ではなかったし、あの球だけあんなに出たのはどう考えてもおかしい」と語っている。その後、準々決勝では横浜高校相手に好投するも、9回に決勝点を奪われて敗れたが、チームをベスト8に導き全国的な注目を浴びた。当時、「僕は9回でも150km/hの球を投げることができる」と発言したり、プロ入り直後には「松坂投手との剛球対決が楽しみです」などの強気の発言も多かった。また、当時としては珍しく眉毛を細く整えていたことでも注目されていた。その後、国際野球連盟主催の第34回IBAFワールドカップ日本代表に出場。予選リーグ第1戦のフィリピン戦、最終戦のオランダ戦で中継ぎで登板した。同大会には後に福岡ダイエーホークスでチームメートとなる井口資仁・篠原貴行が出場していた。プロ・アマ合同の同大会で高校生が日本代表として選出されたのは史上初であった。また、ドラフト時に巨人入団を希望していたと取れる言動があったが実はヤクルトファンで、理由は「ユニフォームがカッコいいから」というものだった。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た真田裕貴

    3月28日の対阪神タイガース戦で、初の開幕投手を務める。その後、抑えに予定していたトラビス・ヒューズが不調なために抑えに抜擢され、4月27日の対広島東洋カープ戦では自身初となるセントラル・リーグでのセーブを記録。以降も抑えを務めたが、100敗の可能性すら囁かれる低迷状態に陥った横浜では抑え投手が登板するような展開に持ち込むことすら難しく、登板間隔が大きく空いた調整不足から打ち込まれる場面も見られ、9敗を喫して防御率3.29と、抑えとしては平凡なものに終わった。それでも22セーブ、WHIP0.97と低迷するチームの中で気を吐き、監督推薦でオールスターゲームに初出場を果たす。それまでは数度のフレッシュオールスター推薦を負傷で辞退するなど、オールスターゲームは縁遠いものであった。シーズン途中に真田裕貴(巨人が寺原の交渉権を獲得できなかったことによる外れ1位)が入団したため、寺原、秦裕二と共に2001年のドラフト1位指名選手が同チームに3人いるという珍事が起きた。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た井口資仁

    3年夏の全国高等学校野球選手権宮崎大会の3回戦(7月18日・対日南振徳商戦)でノーヒットノーランを記録。予選決勝(7月25日・対宮崎日大戦)では完投で勝利投手となり、日南学園を3年ぶり3度目の甲子園出場に導く。第83回全国高等学校野球選手権大会の2回戦(8月16日・対玉野光南高戦)では当時最速となる154km/hを記録。この時、ボストン・レッドソックスのスカウトの速度計は98マイル(約157.7km/h)を示した。この一球について寺原は、球が外に大きく外れたこともあってか「あれはスピードガンの狂いでしょう。あの試合は体調も万全ではなかったし、あの球だけあんなに出たのはどう考えてもおかしい」と語っている。その後、準々決勝では横浜高校相手に好投するも、9回に決勝点を奪われて敗れたが、チームをベスト8に導き全国的な注目を浴びた。当時、「僕は9回でも150km/hの球を投げることができる」と発言したり、プロ入り直後には「松坂投手との剛球対決が楽しみです」などの強気の発言も多かった。また、当時としては珍しく眉毛を細く整えていたことでも注目されていた。その後、国際野球連盟主催の第34回IBAFワールドカップ日本代表に出場。予選リーグ第1戦のフィリピン戦、最終戦のオランダ戦で中継ぎで登板した。同大会には後に福岡ダイエーホークスでチームメートとなる井口資仁・篠原貴行が出場していた。プロ・アマ合同の同大会で高校生が日本代表として選出されたのは史上初であった。また、ドラフト時に巨人入団を希望していたと取れる言動があったが実はヤクルトファンで、理由は「ユニフォームがカッコいいから」というものだった。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た越智大祐

    春先は好投とKOを繰り返していたが、5月23日の巨人戦からは7連勝。この試合では、8回まで1失点に抑えると、9回表2死無走者の自身の打席で、粘りを見せて越智大祐から執念で四球を選んで出塁。その後山崎浩司の3ランが飛び出し、その裏を無失点に抑えて1失点完投勝利を収め、自身にとって初の巨人戦勝利となった。また、巨人同様に横浜時代全く勝てなかった阪神戦も、6月6日の対戦で完投勝利を挙げて対阪神初白星を収めた。これにより近鉄を含む12球団勝利を達成し、東北楽天ゴールデンイーグルスから勝利すれば工藤公康以来、史上2人目となる13球団勝利も見えたがこの年の楽天戦に2戦登板するも勝ち星はつかず、記録は来シーズンに持ち越しとなった。オールスターゲームの初戦(7月22日・ナゴヤドーム)にて初先発し、3回を被安打1、自責点0で敢闘選手賞に選ばれた。7月29日の埼玉西武ライオンズ戦で10勝目を挙げたが、右肘の違和感を訴え8月4日に登録抹消。8月14日に復帰したが、序盤に失点するケースが多く、復帰後は2勝5敗とやや苦闘した。しかし、最終的には12勝10敗、防御率3.06の成績を収め、チームの勝ち頭となり、4年ぶりの2桁勝利を挙げた。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た中内正

    2001年のドラフト会議で、4球団(ダイエー・中日・巨人・横浜)から1位指名を受けるが抽選の末、3番目に引いた王貞治が率いるダイエーが交渉権を獲得。それまで意中の選手の交渉権を引き当てられずに嘆いていた王は、利き手である左手ではなく、IBAFワールドカップ開会式後に寺原と初対面した際に握手を交わした右手で初めてクジを引いた。王は引いたクジを握り締めたまま、左右を確認しながらゆっくりと手元にあるクジを確認すると、すぐさま満面の笑みと安堵の表情を見せながら右手を掲げた。一方、会議の様子を見ていた寺原は「交渉権はダイエー」の一報に表情を強張らせ、ドラフト後の取材でも「ダイエーに行くかどうか分からない」と進学・社会人行きの含みを持たせた心情を洩らした。地元・九州出身で、甲子園で全国的に注目を浴びた寺原の獲得のため、球団社長の高塚猛の要望で、指名の挨拶には王と中内正オーナーが訪れた。オーナーが自ら挨拶に赴くことは球団史上初で、寺原は「九州の星になりたいです」とダイエー入団を決めた。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た吉村裕基

    ソフトバンク時代、新垣渚や和田毅は寺原に先発の5番手の枠に居座る活躍を望んでいたようで常に気にかけていた。特に新垣とは公私にわたる付き合いで、積極的に練習に付き合ってもらったり、食事や買い物に誘うなど面倒を見てもらっていた。2006年オフ、横浜へのトレードが決まった日の会見で気丈に受け答えし、トレードを前向きに捉えていたが、兄貴分の新垣に対して複雑な胸の内を語り、落ち込んでいた様子を九州ローカルの番組で明かされた。新垣自身もこのトレードに関してショックであることを語っていたが、現在は寺原に電話などで激励を続けており、師弟関係は継続中である。元チームメートで同級生の神内靖とは高校時代からのライバルでお互いに意識し競い合える間柄と認め合っており、神内は寺原のトレード移籍に関して、「これからも一緒にやっていけると思っていただけに残念」というコメントした(神内は多村仁志や吉村裕基を含む大型トレードによって、すれ違いで2013年より横浜へ移籍)。ソフトバンク時代にバッテリーを組んだ阪神タイガースの城島健司とは、自主トレ仲間で釣りの師弟関係。毎年オフは釣りと城島の実家がある長崎県佐世保市で練習を行うのが恒例。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た斉藤和巳

    4月18日、対大阪近鉄バファローズ戦でプロ初の完投勝利。前試合までの杉内俊哉・新垣渚・和田毅に続いての完投勝利を挙げ、球団初となる4試合連続完投勝利を記録した。前半戦に6連勝を記録するなど、チームの快進撃に貢献。斉藤和巳(Saitoh)、和田(Wada)、新垣(Arakaki)、寺原(Terahara)の4投手のローマ字頭文字を取って「SWAT」というグループを結成していた。ネーミングは、当時公開された映画S.W.A.T.に由来。球団が4人を若手先発投手陣を売り出そうとしただけで、4人が揃って何らかの活動を行っていたわけではないが、4投手に因んだメガホンやポスターなどがホークスグッズの新ブランド「SWAT」として、福岡ドームやホークスグッズ専門ショップハリーズで販売されていた。7月にはローソンの企画で九州出身の選手を県別に分けて、各県の名物を具にした「ホークス応援おにぎり」が発売された。宮崎県は「チキン南蛮おにぎり」で寺原を応援していた。横浜移籍前まではあまり知られていなかったがパスタも好物の一つで、ローソンのホークス応援弁当で「寺原の好物はナポリタン」と紹介されていた。また、2002年から2003年にかけて、日刊スポーツ九州のホームページに「寺原日記」が設けられ、ほぼ毎日更新されていた。内容はピッチングに関することから、プライベートに至るまで、率直な言葉で書き綴られており、好評を博していた。しかし、その後は故障に苦しみ7勝5敗に終わり、同年の日本シリーズでの登板機会はなかった。 12月8日に高校の1年後輩の女性と入籍した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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    寺原隼人から見た小久保裕紀

    、も故障に苦しみ、勝利を挙げることができなかった。同年オフには過去に斉藤和巳や小久保裕紀らのトレーナー経験がある山尾伸一と個人契約を結び、4月13日、シーズン初登板(初先発)で2003年8月22日以来、965日ぶりとなる勝利を挙げた。その後、7月16日のプロ初完封や10月9日のプレーオフ第2ステージ進出に貢献する好投などの活躍を見せたが、12月5日、多村仁とのトレードで横浜ベイスターズへ移籍した。寺原隼人 フレッシュアイペディアより)

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