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小川淳司から見た習志野市立習志野高等学校
中学時代は三塁手としてプレーし、目立った実績のないまま地元の習志野高校に進学。体が大きく肩が強かったため捕手にコンバートされたが、故障者が出たのをきっかけに1年生の秋に投手に転向した。1年生当時、2学年上に掛布雅之がおり、当時は話もできなかったが意識する存在だったと述べている。肋間神経痛でも走り込みを休めなかったというほどの猛練習を積み、エースとなる。、2年生時の夏の甲子園県予選では、4回戦で銚子商の土屋正勝と投げ合い、0対2で惜敗。秋季関東大会ではベスト4に入り、翌春の選抜大会に出場したが、赤嶺賢勇を擁する豊見城高に一回戦で敗れた。(小川淳司 フレッシュアイペディアより)
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小川淳司から見た全日本大学野球選手権大会
中央大学では外野手に転向し、東都大学リーグでは通算98試合出場、351打数80安打、打率.228、5本塁打、39打点の成績を残した。また、4年生のにはエース香坂英典を擁し春季リーグで5年ぶりに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で早大を降し優勝。同じ中大から香坂、高木豊、熊野輝光らと共に同年の日米大学野球の代表に選ばれ、原辰徳、岡田彰布とともにクリーンアップを任されている。卒業後は河合楽器に進み都市対抗野球大会に2年連続出場、1981年のドラフト会議で4位指名されヤクルトに入団。(小川淳司 フレッシュアイペディアより)
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