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野中広務から見た小沢一郎
1983年8月7日に、前尾繁三郎、谷垣専一の両衆院議員死亡に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙において自民党公認・木曜クラブ新人として、2議席を自民党の宏池会新人谷垣禎一候補(後の自民党総裁)、日本共産党の有田光雄候補(同党京都府委員会役員、後にジャーナリスト・参議院議員になる有田芳生の父)、日本社会党の山中末治候補(元京都府八幡市長。後、衆議院議員)、前尾系無所属林長禎候補(前京都市議会議長)らと争う。開票直後は、野中リードの速報が入るものの、次第に谷垣、有田両候補にリードを許し始めた。谷垣候補が当確し、続いて有田候補が勝利宣言、野中は敗北宣言の準備を始めた。しかし、野中の地元・園部町で未開票の投票箱の存在が判明して、有田候補を逆転し初当選を果たした。野中が一度は敗北を覚悟した選挙結果に、京都府議時代から目をかけていた田中角栄元首相が自民党京都府連会長上田稔参議院議員(後の環境庁長官)に対して激怒したという。なお、当初自民党には2人区に対しては谷垣1人のみ擁立する案があったが、それに対して独占を目指して2人擁立論を自民党総務局長として強硬に主張して谷垣・野中の2人擁立を行ったのが、後に野中と対立することになる小沢一郎であった。(野中広務 フレッシュアイペディアより)
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斎藤次郎から見た小沢一郎
竹下内閣時代に、小沢一郎内閣官房副長官と出会い、その後も小沢と歩調を合わせた猪突猛進の言動で、大宮敏充のデンスケにちなんで、通称、「デンさん」ないし「デンスケ」などと呼ばれた。第2次海部内閣改造内閣時代の1991年1月24日に決定された湾岸戦争への90億ドルの資金供出には、小沢自民党幹事長と共に、石油税と法人税の一時的増税で賄ったのに始まり、主計局長在任中の宮沢内閣時代に、小沢、牧野徹建設事務次官(のちに小泉内閣で内閣総理大臣補佐官)らと練り上げた「国際貢献税」構想を打ち出し、その後の非自民の連立細川内閣時代においても、連立政権のエンジン役を務めた小沢と共に「国民福祉税」構想をぶち上げた。(斎藤次郎 フレッシュアイペディアより)
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