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ヘルベルト・フォン・カラヤンから見た小澤征爾
日本との関係は古く、1954年の初来日以降、11回来日している。日本でのカラヤンの人気は高く、指揮者の代名詞としてクラシック・ファンのみならず一般大衆もその認知するところであった。中でもカラヤンの「運命」と「未完成」をカップリングしたLPは日本で約150万枚を売り上げた(カラヤンの死去時点で)。カラヤンは、東京・赤坂にある日本有数の音楽ホールであるサントリーホールの建設にも設計の段階から携わっている(このホールは、カラヤンとベルリン・フィルの本拠地であったベルリン・フィルハーモニーをモデルにしている)。その業績を称えて、サントリーホールの前(アーク森ビル)の広場が「カラヤン広場」と命名され、今日もその名を刻んでいる。サントリーホールのオープニングを祝う来日公演は、病気でキャンセルを余儀なくされ、弟子である日本人指揮者小澤征爾に代役がゆだねられた。(ヘルベルト・フォン・カラヤン フレッシュアイペディアより)
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晋友会合唱団から見た小澤征爾
この名称は1980年、小澤征爾指揮でマーラーの「交響曲第8番」が演奏されるにあたって誕生した。この演奏会にあたって関屋はその当時指導していたすべての合唱団、およびその中の団員が受け持っている3つの児童合唱団を参加させた。だが、それらの団体を一つ一つプログラムに書き連ねるのでは「体裁上みっともない」と彼が感じていたこと、また、「一体感を持たせたい」という理由もあって、新しい団体名を考案することにした。「晋友会」という名前には「関屋晋の友だち」という意味があり、またウィーン楽友協会を意識してもいると、彼は自著のなかで明かしている(『コーラスは楽しい』岩波新書)。(晋友会合唱団 フレッシュアイペディアより)
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ザルツブルク音楽祭から見た小澤征爾
1956年、カラヤンが音楽祭芸術監督に就任した(1960年まで)。カラヤンは音楽祭の諸改革や新機軸を次々と打ち出し、1957年からはウィーン・フィル以外のオーケストラも呼ぶことになり、その手始めとして彼の手兵のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が音楽祭に初出演した。また、祝祭大劇場の建築を主導し1960年に完成、カラヤン指揮の「ばらの騎士」で杮落としが行われた。従来の祝祭劇場は1963年に改装された。カラヤン以外にも、戦前から出演していたベームを初めヨーゼフ・カイルベルト、イシュトヴァン・ケルテス、ズービン・メータ、ロリン・マゼール、クラウディオ・アバド、ジェームズ・レヴァイン、小澤征爾ら時代を代表する顔ぶれでその地位を揺るぎないものとした。この時期には一部のチケットはプレミアにより高額で取引されていた。カラヤンは指揮以外にも自ら歌劇の演出を行い、1965年の「ボリス・ゴドゥノフ」初めて成功を得た。なおカラヤンは1967年から、同じ祝祭大劇場で復活祭音楽祭を始めた(ザルツブルク復活祭音楽祭)。(ザルツブルク音楽祭 フレッシュアイペディアより)
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サイトウ・キネン・オーケストラから見た小澤征爾
桐朋学園創立者の一人である斎藤秀雄の没後10年にあたる1984年、斎藤の弟子である小澤征爾と秋山和慶を中心に、国内外で活躍する斎藤の教え子たちが結集し同年9月に東京と大阪で開かれた「斎藤秀雄メモリアル・コンサート」で特別編成された『桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラ』が母体のオーケストラである。(サイトウ・キネン・オーケストラ フレッシュアイペディアより)
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