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岡不崩から見た小石川植物園
明治19年(1886年)1月に図画取調掛が発足すると翌月から学校に通うように小石川植物園内の事務所に通った。岡倉天心とフェノロサは欧米に派遣されていたため、友信と芳崖が毎日植物園に出勤、彩色の研究を行っていたが、不崩は本多天城、秋水らと師の傍らで学んでいた。図画取調掛といっても芳崖や友信らを中心にして橋本雅邦、立嶽、山名貫義、狩野探美らが集まる画塾のような趣の部署であり、ここにおける研鑽が不崩にとっての画業の基礎となっていった。不崩は明治20年(1887年)3月に芳崖、友信らの妙義山行きに随伴する。フェノロサ不在中は鑑画会はほとんど休会状態であったが、時々河瀬秀治宅において開かれる小会に出席、芳崖指導の下、色彩研究をしていた。しかし、明治21年(1888年)11月に東京美術学校開校の直前に芳崖が没したため、前途の指針をなくし、天心の勧めもあって同年の暮れに東京美術学校の入試を受け、翌明治22年(1889年)2月に第1回生として同校に入学する。開校したばかりの同校で不崩はフェノロサの講義を聞いたり、その年の夏は東北地方を漫遊する。明治23年(1890年)9月には高等師範学校講師に抜擢され、東京美術学校は1年8ヶ月で退学、その後、師範学校を明治28年(1895年)8月退職した後、長崎の私立活水女学校の日本画講師となって九州へ赴いた。明治30年(1897年)には長崎の私立中学玖嶋学館教諭に就任している。(岡不崩 フレッシュアイペディアより)
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クモタケから見た小石川植物園
小石川植物園(東京都文京区)で見出された標本をもとに、Isaria属の新しい未知種ではないかと考えられたが、結局はIsaria arachnophila Ditmar(ドイツ産)と同定・報告された。しかし後者は徘徊性のクモ類を宿主とするとともに子実体が非常に小型かつ繊細であることから、日本産のクモタケとはまったく別の菌であると改めて判断され、新たにIsaria atypicolaとして新種記載された。比較的発達した分生子柄束を形成する点で共通する別属 Spicariaに移し、S. atypicola (Yasuda) Petch の学名を用いる意見もあったが、Isariaに置く処置が伝統的に続いていた。(クモタケ フレッシュアイペディアより)
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東京大学医学部附属病院から見た小石川植物園
東京大学医学部附属病院分院(とうきょうだいがくいがくぶふぞくびょういんぶんいん)は、東京都文京区にかつてあった大学病院である。小石川分院とも呼ばれるが、所在地は小石川植物園などとは隔たった目白台である。(東京大学医学部附属病院 フレッシュアイペディアより)