前へ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
140件中 1 - 10件表示
  • 山下泰裕

    山下泰裕から見た東海大学

    熊本県上益城郡山都町(旧矢部町)出身。東海大学卒業。同大学大学院体育研究科修了。東海大学体育学部教授(1996年 -)、体育学部学部長(2009年4月 - )、副学長(2011年10月 - )、同大学柔道部監督。柔道指導員。前全日本柔道男子強化ヘッドコーチ(1992年 - 2000年)、前男子強化部長(2000年 - 2004年)、強化副委員長(2004年 - )。前国際柔道連盟教育コーチング理事(2003年 - 2007年)。全日本柔道連盟理事。日本オリンピアンズ協会理事。神奈川県体育協会会長。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

  • 山下泰裕

    山下泰裕から見たウラジーミル・プーチン

    以上のように、1977年10月の日ソ親善試合から1985年4月の全日本選手権優勝を最後に現役を引退するまで約7年6ヶ月の間に203連勝を記録した(途中、引き分けを7回はさんでいる)。また、同期間内に全日本選手権9連覇の偉業も達成。オリンピック正式種目として柔道が採用されて以降、史上最強の選手であるという呼び声も高い。また山下の童顔もあいまって海外での人気は絶大である。特にロシアの政治家ウラジーミル・プーチンは山下を大変気に入っている。また怪我も完治しなかった事から、不敗記録が途切れぬまま28歳という若さで1985年6月17日引退を決断した。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

  • 山下泰裕

    山下泰裕から見た斉藤仁

    大学4年になると、全日本選手権では初戦から一本の山を築き、準決勝では高校時代からのライバルで筑波大学大学院在籍の松井勲を横四方固、決勝では遠藤を合技で破るなどして、全日本選手権では戦後初となるオール一本勝ちでの3連覇を果たした。6月には全日本学生優勝大会で5戦オール一本勝ちを成し遂げて東海大学の3連覇に大きく貢献した。9月には全日本体重別選手権の決勝で遠藤を合技で破り、世界選手権95kg超級代表に選ばれた。10月には全日本学生選手権95kg超級で2連覇を達成すると、無差別でも決勝で国士舘大学1年生の斉藤仁にやや苦戦したものの最後は崩上四方固で破り、2年連続3度目の優勝を果たした。続いてアメリカ国際柔道大会に出場して、95kg超級、無差別級ともにオール一本勝ちで優勝した。12月にはフランスのパリで開催された世界選手権に出場して、準決勝でチューリンを崩上四方固で破ると、決勝では地元フランスのルージェから一本勝ちこそならなかったものの、大外刈で技ありと有効、さらには注意ポイントまで取って快勝して、世界選手権で初優勝を果たした。翌年1月には選抜団体で3戦全勝して東海大学の初優勝に貢献。2月には東海大学の韓国遠征メンバーの一員として訪韓し、現地での試合では全勝した。3月、東海大学を卒業。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

  • 山下泰裕

    山下泰裕から見た小川直也

    オリンピックには一度しか出場せず早々に引退したものの、通算成績528勝16敗15分という記録から、『世界史上最強の柔道家』に推す声はいまだ多い。小川直也は、世界選手権前の全日本合宿で乱取り稽古をつけてもらったが歯が立たず、「なんでこの人(山下)が代表として出ないんだろう?」と引退を疑問に思った。井上康生も全日本選手権3連覇直後の専門誌による取材に、「いまでも寝技は山下先生が一番強いと思います」と答えている。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

  • 山下泰裕

    山下泰裕から見たアントニオ猪木アントニオ猪木

    新日本プロレスの代表者であるアントニオ猪木が山下の祖父に契約金の一部を渡し、プロレスラー転向を進めようとした。この話に山下本人は一切関わっておらず、プロレスラーに転向するつもりも無かった。報道によってこの件を知った山下は祖父を説得し、祖父は全額を返還した。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

  • 山下泰裕

    山下泰裕から見た篠原信一

    シドニーオリンピックでの篠原信一の銀メダル誤審問題により、国際試合での判定を厳密に審査する点においてシステムを見直す必要を感じ、2003年国際柔道連盟総会(大阪)教育・コーチング理事に立候補し、対立候補が無く当選。就任して改革に務めた。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

  • 山下泰裕

    山下泰裕から見た昭和天皇

    かつて皇居の園遊会に招かれ、昭和天皇から「柔道は、骨が折れますか(柔道は、大変ですかの意)」と尋ねられ、「はい、昨年骨折しました」と答えて周囲の爆笑を誘ったエピソードは、実直な人柄を表して有名である。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

  • 山下泰裕

    山下泰裕から見た井上康生

    オリンピックには一度しか出場せず早々に引退したものの、通算成績528勝16敗15分という記録から、『世界史上最強の柔道家』に推す声はいまだ多い。小川直也は、世界選手権前の全日本合宿で乱取り稽古をつけてもらったが歯が立たず、「なんでこの人(山下)が代表として出ないんだろう?」と引退を疑問に思った。井上康生も全日本選手権3連覇直後の専門誌による取材に、「いまでも寝技は山下先生が一番強いと思います」と答えている。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

  • 山下泰裕

    山下泰裕から見た全日本柔道選手権大会

    2年生の時には7月の金鷲旗で10戦全勝してチームを優勝に導いたものの、続く8月のインターハイの準決勝ではその年の全日本選手権に高校生ながら出場を果たして注目された岐阜県立関高校3年生の松井勲に判定負けして3位に終わる。もはや熊本には練習相手がおらず、自身の実力が伸び悩んでいるのを実感していた山下は、松井や吉岡の成長を見るにつけ現状に不安を覚えた事や、祖父の奨めなどもあり、2学期からは前年より勧誘のあった東海大相模高校に転校する事となった。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

  • 山下泰裕

    山下泰裕から見た二宮和弘

    弱冠17歳で出場した1975年の全日本選手権では、高校生ながら準決勝まで進出し、そこで旭化成の上村春樹に判定負けを喫するも3位入賞を果たした。5月にはウィーン世界選手権の国内1次予選会に出場するが、警視庁の遠藤純男に優勢負け、福岡県警の二宮和弘には合技(大外刈、小外刈)で一本負けを喫した。7月には2次予選会に出場するが、そこでは静岡県警の安斉悦雄に優勢負けした。一方、金鷲旗では11戦全勝して東海大相模の初優勝に貢献すると、インターハイ団体戦では8戦全勝して東海大相模を初優勝に導き、個人戦重量級でも6戦全勝して2年ぶり2度目の優勝を果たした。9月には全日本選抜体重別選手権に出場したが、全日本選手権同様、遠藤に優勢負けした。10月には国体高校の部に出場して、8戦7勝1分けの成績で神奈川県の優勝に大きく貢献。11月には全日本新人体重別選手権で優勝を果たした。翌76年の1月にはフランス国際に出場して、準決勝でオーストリアのクラウス・ワラスにまず小内刈で効果を取られると、続いて出足払いで技ありを取られピンチを迎えるも(この技を主審は一本と判断したが、副審2人が技ありと示した事で技ありに訂正となった)、その後横四方固で逆転の一本勝ちを果たすと、決勝でもミュンヘンオリンピック重量級3位であるソ連のギービ・オナシビリに棄権勝ちして、高校生にしてフランス国際を制した。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

前へ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
140件中 1 - 10件表示

「山下泰裕」のニューストピックワード