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  • 山下泰裕

    山下泰裕から見た九州学院中学校・高等学校

    高校進学に当たり東京の強豪校から多くのスカウトを受けるが、「東京へ出るのは大学からでいい」と考えていた山下は、恩師の白石が新たに柔道部監督を務める事になった九州学院高校に進学する。金鷲旗の準決勝では嘉穂高校2年生の吉岡剛に判定負けしてチームは3位にとどまったものの、インターハイ重量級では史上初の1年生優勝を果たした。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た東海大学付属相模高等学校・中等部

    2年生の時には7月の金鷲旗で10戦全勝してチームを優勝に導いたものの、続く8月のインターハイの準決勝ではその年の全日本選手権に高校生ながら出場を果たして注目された岐阜県立関高校3年生の松井勲に判定負けして3位に終わる。もはや熊本には練習相手がおらず、自身の実力が伸び悩んでいるのを実感していた山下は、松井や吉岡の成長を見るにつけ現状に不安を覚えた事や、祖父の奨めなどもあり、2学期からは前年より勧誘のあった東海大相模高校に転校する事となった。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た園遊会

    かつて皇居の園遊会に招かれ、昭和天皇から「柔道は、骨が折れますか(柔道は、大変ですかの意)」と尋ねられ、「はい、昨年骨折しました」と答えて周囲の爆笑を誘ったエピソードは、実直な人柄を表して有名である。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た全日本選抜柔道体重別選手権

    弱冠17歳で出場した1975年の全日本選手権では、高校生ながら準決勝まで進出し、そこで旭化成の上村春樹に判定負けを喫するも3位入賞を果たした。5月にはウィーン世界選手権の国内1次予選会に出場するが、警視庁の遠藤純男に優勢負け、福岡県警の二宮和弘には合技(大外刈、小外刈)で一本負けを喫した。7月には2次予選会に出場するが、そこでは静岡県警の安斉悦雄に優勢負けした。一方、金鷲旗では11戦全勝して東海大相模の初優勝に貢献すると、インターハイ団体戦では8戦全勝して東海大相模を初優勝に導き、個人戦重量級でも6戦全勝して2年ぶり2度目の優勝を果たした。9月には全日本選抜体重別選手権に出場したが、全日本選手権同様、遠藤に優勢負けした。10月には国体高校の部に出場して、8戦7勝1分けの成績で神奈川県の優勝に大きく貢献。11月には全日本新人体重別選手権で優勝を果たした。翌76年の1月にはフランス国際に出場して、準決勝でオーストリアのクラウス・ワラスにまず小内刈で効果を取られると、続いて出足払いで技ありを取られピンチを迎えるも(この技を主審は一本と判断したが、副審2人が技ありと示した事で技ありに訂正となった)、その後横四方固で逆転の一本勝ちを果たすと、決勝でもミュンヘンオリンピック重量級3位であるソ連のギービ・オナシビリに棄権勝ちして、高校生にしてフランス国際を制した。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た日本オリンピック委員会

    1980年4月には東海大学大学院体育学研究科修士課程に進学した。入学直後の全日本選手権では準決勝で松井勲に判定勝ちすると、決勝では遠藤純男を横四方固で破り4連覇を達成した。しかしながら、5月24日には日本オリンピック委員会総会において、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議するためオリンピック大会不参加が最終的に選択された。その翌日の全日本体重別選手権では、遠藤が繰り出した奇襲技蟹挟によって山下は足の腓骨を骨折、痛み分けとなった。代表に選ばれるも試合に参加できなかった山下は、他の競技の選手と共に、マスコミを通じて文字通り涙ながらに訴えた。オリンピック大会不参加・ボイコット当時の山下の回想によれば、『コップ酒を何杯もあおってもとてもやり切れる気持ちではなかった。枕に顔を押し付け、止め処も無く流れる涙を堪えるほか無かった』との事。もっともオリンピック前には前述した腓骨の骨折もあり「どちらにしろ出られなかった」との声もある。失意の山下は、松前重義東海大学総長から「オリンピックを観戦して来なさい」と言われ、モスクワオリンピック柔道会場の観客席で観戦する。そこで世界の柔道選手と再会、交流を深め、傷つけられた心はいくらか慰められた。この不運に挫ける事なく、4年後も再び日本代表に選ばれた。柔道のモスクワオリンピック代表のうち、4年後も再び代表に選ばれたのは山下ただ一人であった。結局山下は初めてオリンピックを目指してから3大会目にしてようやく代表として出場できる事になった。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た中央教育審議会

    文部科学省中央教育審議会委員(第1期 - 第2期)山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見たモスクワ

    1983年の3月には大学院を修了して、4月からは東海大学体育学部の講師となった。そして全日本選手権では準決勝で新日本製鐵の藤原敬生に豪快な大外刈で一本勝ちすると、決勝では斉藤に判定勝ちして7連覇を達成した。7月の全日本体重別選手権では決勝で斉藤を指導で下して優勝を果たし、世界選手権95kg超級代表に選ばれた。10月にソ連のモスクワで開催された世界選手権では、準決勝で東ドイツのヘンリー・ストールを指導で下すと、決勝ではオランダのウィリー・ウィルヘルムを横四方固で破り、世界選手権3連覇を達成した。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た全日本柔道連盟

    熊本県上益城郡山都町(旧矢部町)出身。東海大学卒業。同大学大学院体育研究科修了。東海大学体育学部教授(1996年 -)、体育学部学部長(2009年4月 - )、副学長(2011年10月 - )、同大学柔道部監督。柔道指導員。前全日本柔道男子強化ヘッドコーチ(1992年 - 2000年)、前男子強化部長(2000年 - 2004年)、強化副委員長(2004年 - )。前国際柔道連盟教育コーチング理事(2003年 - 2007年)。全日本柔道連盟理事。日本オリンピアンズ協会理事。神奈川県体育協会会長。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見たACジャパン

    ACジャパン - 1980年代後半(当時:公共広告機構)に放映されたCMで言った「人生、投げたらイカン」という言葉が当時反響を呼んだ。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た監督

    熊本県上益城郡山都町(旧矢部町)出身。東海大学卒業。同大学大学院体育研究科修了。東海大学体育学部教授(1996年 -)、体育学部学部長(2009年4月 - )、副学長(2011年10月 - )、同大学柔道部監督。柔道指導員。前全日本柔道男子強化ヘッドコーチ(1992年 - 2000年)、前男子強化部長(2000年 - 2004年)、強化副委員長(2004年 - )。前国際柔道連盟教育コーチング理事(2003年 - 2007年)。全日本柔道連盟理事。日本オリンピアンズ協会理事。神奈川県体育協会会長。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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