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  • 山下泰裕

    山下泰裕から見た全日本ジュニア柔道体重別選手権大会

    弱冠17歳で出場した1975年の全日本選手権では、高校生ながら準決勝まで進出し、そこで旭化成の上村春樹に判定負けを喫するも3位入賞を果たした。5月にはウィーン世界選手権の国内1次予選会に出場するが、警視庁の遠藤純男に優勢負け、福岡県警の二宮和弘には合技(大外刈、小外刈)で一本負けを喫した。7月には2次予選会に出場するが、そこでは静岡県警の安斉悦雄に優勢負けした。一方、金鷲旗では11戦全勝して東海大相模の初優勝に貢献すると、インターハイ団体戦では8戦全勝して東海大相模を初優勝に導き、個人戦重量級でも6戦全勝して2年ぶり2度目の優勝を果たした。9月には全日本選抜体重別選手権に出場したが、全日本選手権同様、遠藤に優勢負けした。10月には国体高校の部に出場して、8戦7勝1分けの成績で神奈川県の優勝に大きく貢献。11月には全日本新人体重別選手権で優勝を果たした。翌76年の1月にはフランス国際に出場して、準決勝でオーストリアのクラウス・ワラスにまず小内刈で効果を取られると、続いて出足払いで技ありを取られピンチを迎えるも(この技を主審は一本と判断したが、副審2人が技ありと示した事で技ありに訂正となった)、その後横四方固で逆転の一本勝ちを果たすと、決勝でもミュンヘンオリンピック重量級3位であるソ連のギービ・オナシビリに棄権勝ちして、高校生にしてフランス国際を制した。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た全国中学校柔道大会

    中学時代は監督の白石礼介の厳しい指導の下、組み手を左自然体に変えて、基本に忠実な柔道に取り組んだ事でさらに力を付けた。全国中学校柔道大会の団体戦には2年3年と出場して、ともにオール一本勝ちで藤園中学の優勝に大きく貢献し、「怪童出現」と一躍注目された。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見たワールドカップ・トビリシ

    この一戦は公式戦において山下が喫した16回目の敗戦であるが、これ以降敗れる事は一度もなかった。その直後に日ソ親善試合に出場して1試合のみながら勝利した。ここから公式戦203連勝がスタートする事となった。11月には日仏ソ三国対抗大会に出場してモントリオールオリンピック重量級金メダリストであるソ連のセルゲイ・ノビコフと2度対戦するが、2度とも引き分けに終わった。翌年2月にはグルジアのトビリシで開催されたソ連国際に出場して、95kg超級では予選でノビコフを注意で破ると、準決勝ではローザンヌ世界選手権2位のソ連のラマズ・ニチラーゼを合技で下し、決勝では予選に続いて対戦する事となったノビコフを判定で破り優勝を果たすと、無差別級ではオール一本勝ちでの優勝を成し遂げて、2階級制覇を達成した。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た国際柔道連盟

    熊本県上益城郡山都町(旧矢部町)出身。東海大学卒業。同大学大学院体育研究科修了。東海大学体育学部教授(1996年 -)、体育学部学部長(2009年4月 - )、副学長(2011年10月 - )、同大学柔道部監督。柔道指導員。前全日本柔道男子強化ヘッドコーチ(1992年 - 2000年)、前男子強化部長(2000年 - 2004年)、強化副委員長(2004年 - )。前国際柔道連盟教育コーチング理事(2003年 - 2007年)。全日本柔道連盟理事。日本オリンピアンズ協会理事。神奈川県体育協会会長。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た柔道

    熊本県山都町(旧上益城郡矢部町)生まれ。実家は魚屋だった。幼少期虚弱だった事から、祖父・鯛蔵からスパルタ教育を受ける。しかし保育園入園頃には既に体格が大きく、4歳時点で身長122cmであり体重も20kgを越え、わんぱく少年として喧嘩やいたずらに明け暮れるようになり、小学校低学年の頃にはあまりの腕白ぶりに同級生から「(泰裕がいるから)学校に行きたくない」と苦情が出る程で母親は度々近所等に頭を下げて回っていたという。しかし成績は良かったという。小学校3年の1月に藤壺道場に入門し、柔道を始めた。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た熊本県

    熊本県上益城郡山都町(旧矢部町)出身。東海大学卒業。同大学大学院体育研究科修了。東海大学体育学部教授(1996年 -)、体育学部学部長(2009年4月 - )、副学長(2011年10月 - )、同大学柔道部監督。柔道指導員。前全日本柔道男子強化ヘッドコーチ(1992年 - 2000年)、前男子強化部長(2000年 - 2004年)、強化副委員長(2004年 - )。前国際柔道連盟教育コーチング理事(2003年 - 2007年)。全日本柔道連盟理事。日本オリンピアンズ協会理事。神奈川県体育協会会長。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た日本武道館

    大学3年になると、全日本選手権では3回戦の上村戦こそ2?1の微妙な内容での勝利だったが、その後は順調に勝ち上がり、決勝では高木を大外刈(ないしは足車)で破り2連覇を達成した。6月には全日本学生優勝大会で6戦オール一本勝ちを成し遂げて東海大学の2連覇に大きく貢献した。7月には全日本体重別選手権の決勝で上村から内股で効果を取って2連覇を達成。9月には日本武道館訪欧武道団によるヨーロッパ遠征メンバーの一員として各地で試合を行い、ウィーン世界選手権軽重量級で優勝したフランスのジャン=リュック・ルージェと引き分けた以外の10戦は全て勝利した。10月には全日本学生選手権95kg超級で優勝すると、無差別級でも2年ぶり2度目の優勝を果たした。さらに国体成年の部では5戦5勝して神奈川県の2連覇に大いに貢献。11月にはブラジルのリオデジャネイロで開催された世界学生選手権の無差別級に出場してオール一本勝ちでの優勝を果たすが、団体戦では全勝したもののチームは3位に止まった。さらに全日本選抜団体選手権にも出場するが、ルートヴィヒスハーフェン世界選手権重量級で3位だった新日本製鐵の岩田久和との1戦を引き分けたのみで終わり、東海大学も3位に止まった。その直後の嘉納杯の95kg超級では準決勝でルージェを横四方固で破ると、決勝でも上村から大内刈で一本を取ってオール一本勝ちで優勝を果たした。続く無差別級では初戦でソ連のアレクセイ・チューリンに先に効果を取られるが、終了30秒ほど前に大内刈で有効を取り返して辛勝した。その後は順調に勝ち上がり、準決勝では岩田を横四方固で破ると、決勝ではルージェを大外刈の有効で下して2階級制覇を達成した。翌年1月にはフランス国際に出場して決勝でチューリンを横四方固で破ったのをはじめ、6試合オール一本勝ちで優勝を果たした。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見たブラジル

    大学3年になると、全日本選手権では3回戦の上村戦こそ2?1の微妙な内容での勝利だったが、その後は順調に勝ち上がり、決勝では高木を大外刈(ないしは足車)で破り2連覇を達成した。6月には全日本学生優勝大会で6戦オール一本勝ちを成し遂げて東海大学の2連覇に大きく貢献した。7月には全日本体重別選手権の決勝で上村から内股で効果を取って2連覇を達成。9月には日本武道館訪欧武道団によるヨーロッパ遠征メンバーの一員として各地で試合を行い、ウィーン世界選手権軽重量級で優勝したフランスのジャン=リュック・ルージェと引き分けた以外の10戦は全て勝利した。10月には全日本学生選手権95kg超級で優勝すると、無差別級でも2年ぶり2度目の優勝を果たした。さらに国体成年の部では5戦5勝して神奈川県の2連覇に大いに貢献。11月にはブラジルのリオデジャネイロで開催された世界学生選手権の無差別級に出場してオール一本勝ちでの優勝を果たすが、団体戦では全勝したもののチームは3位に止まった。さらに全日本選抜団体選手権にも出場するが、ルートヴィヒスハーフェン世界選手権重量級で3位だった新日本製鐵の岩田久和との1戦を引き分けたのみで終わり、東海大学も3位に止まった。その直後の嘉納杯の95kg超級では準決勝でルージェを横四方固で破ると、決勝でも上村から大内刈で一本を取ってオール一本勝ちで優勝を果たした。続く無差別級では初戦でソ連のアレクセイ・チューリンに先に効果を取られるが、終了30秒ほど前に大内刈で有効を取り返して辛勝した。その後は順調に勝ち上がり、準決勝では岩田を横四方固で破ると、決勝ではルージェを大外刈の有効で下して2階級制覇を達成した。翌年1月にはフランス国際に出場して決勝でチューリンを横四方固で破ったのをはじめ、6試合オール一本勝ちで優勝を果たした。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見たミュンヘンオリンピック

    弱冠17歳で出場した1975年の全日本選手権では、高校生ながら準決勝まで進出し、そこで旭化成の上村春樹に判定負けを喫するも3位入賞を果たした。5月にはウィーン世界選手権の国内1次予選会に出場するが、警視庁の遠藤純男に優勢負け、福岡県警の二宮和弘には合技(大外刈、小外刈)で一本負けを喫した。7月には2次予選会に出場するが、そこでは静岡県警の安斉悦雄に優勢負けした。一方、金鷲旗では11戦全勝して東海大相模の初優勝に貢献すると、インターハイ団体戦では8戦全勝して東海大相模を初優勝に導き、個人戦重量級でも6戦全勝して2年ぶり2度目の優勝を果たした。9月には全日本選抜体重別選手権に出場したが、全日本選手権同様、遠藤に優勢負けした。10月には国体高校の部に出場して、8戦7勝1分けの成績で神奈川県の優勝に大きく貢献。11月には全日本新人体重別選手権で優勝を果たした。翌76年の1月にはフランス国際に出場して、準決勝でオーストリアのクラウス・ワラスにまず小内刈で効果を取られると、続いて出足払いで技ありを取られピンチを迎えるも(この技を主審は一本と判断したが、副審2人が技ありと示した事で技ありに訂正となった)、その後横四方固で逆転の一本勝ちを果たすと、決勝でもミュンヘンオリンピック重量級3位であるソ連のギービ・オナシビリに棄権勝ちして、高校生にしてフランス国際を制した。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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    山下泰裕から見た腓骨

    1980年4月には東海大学大学院体育学研究科修士課程に進学した。入学直後の全日本選手権では準決勝で松井勲に判定勝ちすると、決勝では遠藤純男を横四方固で破り4連覇を達成した。しかしながら、5月24日には日本オリンピック委員会総会において、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議するためオリンピック大会不参加が最終的に選択された。その翌日の全日本体重別選手権では、遠藤が繰り出した奇襲技蟹挟によって山下は足の腓骨を骨折、痛み分けとなった。代表に選ばれるも試合に参加できなかった山下は、他の競技の選手と共に、マスコミを通じて文字通り涙ながらに訴えた。オリンピック大会不参加・ボイコット当時の山下の回想によれば、『コップ酒を何杯もあおってもとてもやり切れる気持ちではなかった。枕に顔を押し付け、止め処も無く流れる涙を堪えるほか無かった』との事。もっともオリンピック前には前述した腓骨の骨折もあり「どちらにしろ出られなかった」との声もある。失意の山下は、松前重義東海大学総長から「オリンピックを観戦して来なさい」と言われ、モスクワオリンピック柔道会場の観客席で観戦する。そこで世界の柔道選手と再会、交流を深め、傷つけられた心はいくらか慰められた。この不運に挫ける事なく、4年後も再び日本代表に選ばれた。柔道のモスクワオリンピック代表のうち、4年後も再び代表に選ばれたのは山下ただ一人であった。結局山下は初めてオリンピックを目指してから3大会目にしてようやく代表として出場できる事になった。山下泰裕 フレッシュアイペディアより)

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