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中原中也から見た山口県
1907年(明治40年)4月29日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令(しもうのりょう)村(現在の山口市湯田温泉)の中原医院で生まれた。両親の柏村謙助・フク夫妻は結婚後6年あまり子供に恵まれず、中原家当主の政熊にも実子がいなかったため、長男の誕生をおおいに喜び、3日にわたって誕生祝いを行った。当時、父の謙助は軍医として旅順にいたが、手紙で「中也」と名づけるよう送ってきた。10月、生後6ヶ月で母・フクと祖母・スヱと関東州の旅順に渡る。中也を手元で育てたいという謙助の希望によるものだった。翌年の夏、謙助は山口に任ぜられ、一家は山口の中原家に戻った。翌年には広島に異動。(中原中也 フレッシュアイペディアより)
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日本のダムの歴史から見た山口県
第一に計画されたのは五十里ダムである。利根川の大支流・鬼怒川に合流する男鹿川に計画された五十里ダムは鬼怒川改修計画の一環として治水を主目的に1926年より計画されたが、河水統制事業としてその後水力発電目的が加わり1940年(昭和15年)より着工された。完成例としては愛知県が庄内川水系山口川に1933年完成させた山口ダムが日本初であり、治水・灌漑・上水道供給が目的の河水統制事業であった(後に廃止)。翌1934年(昭和9年)には青森県が沖浦ダム(浅瀬石川)、1935年には香川県が長柄ダム(綾川)の建設にそれぞれ着手するなど当初は地方自治体が先駆けて河水統制事業を手掛けた。1937年(昭和12年)になると念願であった河水統制事業調査費が予算として認められ、内閣に河水調査協議会が設置されて本格的な調査が64河川で開始、1940年には調査費の国庫補助も開始された。こうした動きにより右表にある通り多くの河川で多目的ダムなどの河水統制事業が着手され、1940年には現存する日本初の多目的ダムとして山口県が向道ダム(錦川)を完成させた。地方自治体にやや遅れて内務省も直轄ダム事業による多目的ダム建設を計画、琵琶湖河水統制事業や北上川五大ダムの第一弾である田瀬ダム(猿ヶ石川)、釜房ダム(碁石川)、大野ダム(由良川)、猪名川ダム(猪名川)などが計画・施工された。しかし河水統制事業は程なく軍部に翻弄されてゆく。(日本のダムの歴史 フレッシュアイペディアより)
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