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山崎武司から見たオリックス・バファローズ
この年はオープン戦から不調で、4月末に二軍へ降格となる。二軍戦でも不調が続いたが、レオ・ゴメスの故障により、7月から一軍復帰。7月26日の対阪神戦では同点で迎えた9回表一死満塁のチャンスで空振り三振。チームもその裏に蔵本英智のエラーでサヨナラ負けする。試合後、監督の山田は「どこかでブツッと切れてしまう。まるでお通夜みたいなもんだ。それと使った俺が悪いんだけど、チームを奈落の底に突き落としてしまう選手がいる。何とかしてくれたらいいんだけどな。」と発言する。正確にはこの発言が山崎を指したものか不明であったが、山崎は「蔵本じゃない。今日は俺だ。俺が打っていれば、ミスもなかったんだ。」と話した。しかし、先述のように山田の慰留で中日に残留した経緯もあり、後に自身の著書で「山崎って名指しで言えよ!」と不信感を顕わにしていた。この後はほとんど出場機会がなく、二軍戦にも出場しない時が多かった。結局わずか26試合の出場に終わり打率1割台と不本意なシーズンで終わった。レギュラーシーズン終了後、自ら球団にトレードを直訴し平井正史との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍。移籍後の背番号は「5」。(山崎武司 フレッシュアイペディアより)
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山崎武司から見た千葉ロッテマリーンズ
3月26日、チーム史上初の公式戦である千葉ロッテマリーンズ開幕戦では5番・指名打者で先発出場。開幕直後に右手に死球を受けて二軍で治療に専念するなど、レギュラーシーズン当初は活躍できなかったが、この年から始まったセ・パ交流戦に入ると、徐々に調子を上げ、5月7日の巨人戦では9回裏に前田幸長から球団史上初の代打本塁打を、6月になったばかりの時は4試合連続の5本塁打を放つ。交流戦後は4番・指名打者として定着する。7月2日の日本ハム戦では3回裏に江尻慎太郎から史上234人目、通算1000本安打となる左前安打を放つ。プロ入り19年目の年での達成であった。7月27日の対日本ハム戦の試合前に宮城県仙台市内の小学校を訪問。子供たちに「本塁打を打つ。」と約束して臨んだこの日の試合で満塁本塁打を放った。当時、山崎は右バッターのバッティングの基本である「右足重心」という言葉さえも知らなかった状態だったので、監督の田尾により基本を徹底的に指導された。田尾の指導によるフォームの改造が、この年の118試合に出場して5年ぶりの規定打席到達、チーム最多の25本塁打や後年の好成績を残せるようになった要因の一つだと本人は挙げている。(山崎武司 フレッシュアイペディアより)
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山崎武司から見たトヨタ・86
現役時代から自動車レースにも興味を持っていたことから、アマチュアドライバーとしてProject μとINGINGのサポートを受けてトヨタ主催の「GAZOO Racing 86/BRZ Race」に参戦する方針を2014年初めに明らかにした。参戦に向けてモータースポーツライセンスを新たに取得する必要があることや、プロ野球シーズン中は解説者としての活動を優先することから、同年のシリーズにはスポット扱いで参戦するとした。その後7月26日、富士スピードウェイにて行われた第6戦にて、トヨタ・86でレースデビュー。かつての背番号にちなんだ7番のゼッケンを背負い、決勝Bレースを30位で完走した。その後も同レースのクラブマンシリーズ(アマチュアクラス)へ参戦を続け、2018年開幕戦では3位表彰台を獲得している。(山崎武司 フレッシュアイペディアより)
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山崎武司から見たルイス・ロペス (1964年生の内野手)
6月19日の対巨人戦では8回裏に槙原寛己から5番・音重鎮に続いて、本塁打を放つ。山崎の後の大豊も本塁打を放ったため、3者連続本塁打となった。6月は打率.403、13本塁打、33打点を記録し、月間MVPに選ばれる。レギュラーシーズン序盤は打率、本塁打、打点の3部門でトップとなり、オールスターゲームにも監督推薦で出場する。松井秀喜、大豊とタイトルを争った本塁打部門では39本の山崎が38本の松井と大豊を抑えて本塁打王を獲得した。なお、この年は打率はリーグ4位の.322、打点もルイス・ロペスに次ぐ107打点を記録している。また、同年はリーグ最高長打率(.625)もを記録しベストナインに選ばれた。(山崎武司 フレッシュアイペディアより)