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山川静夫から見たニュースウオッチ9
古典芸能、とりわけ歌舞伎に対する造詣・関わりが強く、國學院大學在学中には歌舞伎研究会を自ら設立させた。その当時から役者の声まねを得意とし、ラジオの素人参加番組ではその卓越した技芸で常連となっていた。また、先代(17代)中村勘三郎とは私生活でも親交が深く、学生時代には勘三郎は二役を務める舞台などで、特に勘三郎の声まねを得意としていた山川を使い、早替りのための時間稼ぎに山川の声を使い、その間を繋げたことも度々あったという。その声は、勘三郎夫人にも違いが判らなかったほどの出来栄えであった。長男の18代目とも親交があり、彼の訃報に際しては『ニュースウオッチ9』で想い出を語った。(山川静夫 フレッシュアイペディアより)
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山川静夫から見た3年B組金八先生
1980年の紅白では、この年、7年ぶりに紅白に返り咲いた海援隊の「贈る言葉」の曲紹介の際に、海援隊のボーカル・武田鉄矢のことを、彼が主演を務めたTBSドラマ「3年B組金八先生」を捩って「3年白組金八先生」と紹介した。後のNHKでは民放の番組名、商標、固有名詞などに関する取扱いはかなり緩和されているが、まだ当時の段階ではそれらの名称・名詞をアナウンサーや記者が番組の中で用いることは“ご法度”とされていた。その中で既にエース級のアナウンサーとしての地位を確立していた山川があえてその“ご法度”を破る曲紹介を行ったことに対して、当時、俄かに放送関係者の間で話題となった。(山川静夫 フレッシュアイペディアより)
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山川静夫から見たNHK静岡放送局
1980年8月16日に発生した、『静岡駅前地下街爆発事故』の際、たまたま静岡の実家へ帰省していた山川が事故の一報を聞いてNHK静岡放送局へ駆けつけ、応援アナとして静岡のスタジオから事故のニュースを伝えた。山川がNHK静岡放送局史「静岡放送局70年のあゆみ」に寄稿した当時の述懐によると、「実家から比較的近所にあった静岡局へ自転車で駆けつけ、警察や消防から入ってくる被害者(死傷者氏名や収容先)の情報を読み上げた」とのことである。この事故では高校時代の同級生夫妻も事故に巻き込まれ命を落としており、その同級生夫妻の氏名も読み上げることとなってしまったという。故郷の放送局でありながらも、一度も勤務経験がなかった静岡局でのこの一連の出来事を、山川は「忘れることができない」とし、犠牲者である同級生との、放送を通じての別れを「運命の皮肉さを思わずにはいられない」とも述べている。(山川静夫 フレッシュアイペディアより)