153件中 51 - 60件表示
  • 山本昌

    山本昌から見たダリル・スペンサー

    10月23日のクライマックス・シリーズファイナルステージ第4戦(対巨人)に先発。5安打無失点ながら4回1/3で降板し、ポストシーズン初勝利はできなかった。45歳2か月でのポストシーズン登板は自身の最年長登板記録(43歳2か月)を更新すると共に、1972年のダリル・スペンサーが持つ最年長出場記録(43歳3か月)も更新した。山本昌 フレッシュアイペディアより)

  • 山本昌

    山本昌から見た浅尾拓也

    アーレックス(2006年は同僚のアレックス・オチョア選手、2007年は同じく同僚の福留孝介選手、岩瀬仁紀選手とともに、同社のラジオCMに出演していた。2012年度は和田一浩選手、浅尾拓也選手と出演)山本昌 フレッシュアイペディアより)

  • 山本昌

    山本昌から見た衣笠祥雄衣笠 祥雄

    4月2日の対巨人戦での登板で、投手としては大野豊の22年を抜き、野手を含めても衣笠祥雄の23年と並ぶセ・リーグ最長の実働年数(プロ野球最長は2010年現在工藤公康の29年)となった。5月7日の対広島戦で6回を2安打無失点5三振に抑え、シーズン初勝利。5月14日の対ヤクルト戦で史上26人目となる通算3000投球回を達成。8月4日、ナゴヤドームでの対巨人戦で完投勝利。プロ野球史上24人目となる通算200勝を達成した。中日球団投手の200勝達成は杉下茂以来51年ぶり、42歳11か月での200勝と完投勝利は共に史上最年長記録。200勝達成投手の中でも5年目に初勝利を挙げたのは最も遅い記録。中日ドラゴンズの投手として初の日本プロ野球名球会入会(昭和生まれではない杉下は入会資格は無い)となった。8月24日の対巨人戦にて史上最年長完投記録を更新(43歳0か月)、史上最年長2桁勝利を記録。8月は4勝1敗の好成績を挙げ、史上最年長で月間MVPにも選出された。10月2日、故郷の神奈川県茅ヶ崎市から茅ヶ崎市民栄誉賞が贈られることが決まり、その授賞式が12月27日に茅ヶ崎市総合体育館にて執り行われた。山本昌 フレッシュアイペディアより)

  • 山本昌

    山本昌から見た山本保司

    、中日に山本保司が入団して山本姓が2人になったため、スコアボードや新聞などで略表記される場合は、「山本昌」「山本保」と表示して区別した。オフに山本保司はロッテに移籍し、山本姓は1人だけになって区別する必要はなくなったが、「山本昌」になってから最多勝利などを獲得したことから本人は「昌」を取られることを拒否し、験を担いでより登録名を山本昌(姓と名の区別がない表記)としている。山本昌 フレッシュアイペディアより)

  • 山本昌

    山本昌から見た生原昭宏

    ドジャース傘下の1Aベロビーチ・ドジャースには山本と西村英嗣が所属することになり、そしてそこで前年に山本を指導していたドジャースの世話役・アイク生原との再会が人生の転機となる。生原からは投手の基本である低めへのコントロール、スローカーブの精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導されたが、特に大きかったことは消えかけていた野球への熱意や楽しさを再び思い出させてくれたことであったという。山本昌 フレッシュアイペディアより)

  • 山本昌

    山本昌から見たC・W・ニコルC.W.ニコル

    プライベートの山本は多趣味なことで知られ、中でも特に有名なのがラジコンである。ラジコンを始めたきっかけは、1995年に膝を痛めてリハビリを行っていた際、昼前にリハビリが終わり、暇つぶしに街に出た時、ラジコンショップでラジコンを見つけて「面白そうだ」と思い、始めたことによる。ラジコンショップにはシーズン中でも1週間に1度はかならず顔を出し、地元名古屋で開催されるレースにはシーズン中(ただし、リーグ優勝が確定し、クライマックスシリーズ開催を待つ期間)でも積極的に参加を重ね、これまでに数々の優勝を経験している。その腕前は玄人にも一目置かれる確かなもので、2002年には全日本選手権のEPツーリングカースポーツクラスで4位に入賞した。フジテレビ系の『とんねるずのみなさんのおかげでした』のコーナー「ムダ・ベストテン」ではC・W・ニコルやムツゴロウらと共に登場しない有名人の一人として長らくランクインされていたが、2009年1月22日放送分で遂に登場し、その腕前を披露した。山本昌 フレッシュアイペディアより)

  • 山本昌

    山本昌から見た北山靖

    東海ラジオ放送アナウンサーの北山靖は、実況などで山本昌を紹介する際、本名で紹介する事が多い。山本昌 フレッシュアイペディアより)

  • 山本昌

    山本昌から見た彦野利勝

    帰国直後、当時の中日の投手が足りない状況だったこともあり先発の一角に加わると、スクリューや精度の高いコントロールを駆使して一軍で5連勝(なおかついずれも自責点0)を記録し、リーグ優勝に貢献した。その1988年の日本シリーズでは第3戦の先発に抜擢され工藤公康と投げ合ったが、彦野利勝の先頭打者本塁打の1得点を守りきれず敗戦投手となった。山本昌 フレッシュアイペディアより)

  • 山本昌

    山本昌から見たサンディー・コーファックス

    3月ころ、生原がドジャースの往年の名投手サンディー・コーファックスに山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼はサイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価だったという。また、これも3月、生原に連れられてロサンゼルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラのピッチング練習を見に行くが、そのスクリューがあまりに衝撃的であったために「投げられるわけない」と思ったという。その2か月ほど後、チームメイトのメキシコ人内野手ジョゼフ・スパニュオーロが、試合前のキャッチボールでスクリューボールを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらう。後に自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。よく曲がるので、その日の試合でも使ってみたところ、決め球として通用。それ以後の登板に使っていると、1Aのオールスターゲームまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、メジャーリーグのロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。しかし、山本のビデオを見た星野が成長ぶりに呼び戻すことを決定、リーグ優勝を実現するための戦力とするべく、当初1年間のはずであった留学予定が切り上げられた(星野自身は、「そのままメジャーでやらせてあげてもよかったが、球団社長の意向で」と発言している)。このため、ロースター入り・メジャーリーグデビューはならなかった。ベロビーチ・ドジャースでの成績は、13勝7敗、防御率2.00。山本昌 フレッシュアイペディアより)

  • 山本昌

    山本昌から見た松本幸行

    1984年の入団時より背番号34である。同一背番号を着用した選手としては、プロ野球史上最長である。なお、コーチ・監督時代を含む同一背番号の着用に関しては王貞治が読売時代につけていた背番号1の30年間(1959-1988)が現在の最長記録であるが、2013年シーズンも中日に在籍し背番号34を付けることになれば王の記録に並び、さらに2014年シーズンも同様の条件で着用すれば、王の記録を抜きコーチ・監督時代を問わず単独で最長記録を更新することになる。同年20番に変更した小松辰雄が着けていた背番号を与えられたが、単に空番号をドラフト指名順に当てはめただけである(1位藤王康晴:背番号1、2位仁村徹:背番号24、3位三浦将明:背番号26)。その後活躍が認められ、球団からかつて松本幸行が着けていた中日左のエースナンバーとされている21への変更を打診されるが、「この番号が自分のプロ生活のすべてを知っているから変えたくない」と拒否した。今でもユニフォームに袖を通すときは、必ずユニフォームの背面に感謝しながら着る。山本昌 フレッシュアイペディアより)

153件中 51 - 60件表示

「山本昌」のニューストピックワード