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山本昌から見たサンディー・コーファックス
3月ころ、生原がドジャースの往年の名投手サンディー・コーファックスに山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼はサイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価だったという。また、これも3月、生原に連れられてロサンゼルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラのピッチング練習を見に行くが、そのスクリューがあまりに衝撃的であったために「投げられる訳がない」と思ったという。その2か月ほど後、チームメイトのメキシコ人内野手ジョゼフ・スパニュオーロが、試合前のキャッチボールでスクリューボールを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらう。後に自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。よく曲がるので、その日の試合でも使ってみたところ、決め球として通用。それ以後の登板に使っていると、1Aのオールスターゲームまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、メジャーリーグのロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。しかし、山本のビデオを見た星野が成長ぶりに呼び戻すことを決定、リーグ優勝を実現するための戦力とするべく、当初1年間のはずであった留学予定が切り上げられた(星野自身は、「そのままメジャーでやらせてあげてもよかったが、球団社長の意向で」と発言している)。このため、ロースター入り・メジャーリーグデビューはならなかった。ベロビーチ・ドジャースでの成績は、13勝7敗、防御率2.00。同じ3月、現地の歯医者で全身麻酔を打たれて丸1日眠り、それから2日間の安静を余儀なくされた。合計3日間ランニングすらしておらず体調も最悪な中で投手が底を尽きたため止む無く登板したが、延長12回から4イニングを投げて勝ち投手になったというエピソードを残した。(山本昌 フレッシュアイペディアより)
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山本昌から見た村田兆治
、9月9日の対広島戦で、新井貴浩から通算2000奪三振を達成。9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でプロ野球史上73人目(84回目)となるノーヒットノーランを達成、41歳1か月での達成はプロ野球最年長記録である。許したランナーは4回の森野将彦の失策による1人のみのNPB史上2人目となる無四死球ノーヒットノーランであった。結果として森野の失策で完全試合の夢は潰えたことになったため、森野はひどく落胆していた。しかし、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそノーヒットノーランが達成できた」と発言している。また、試合中に森コーチに対して「ランナーをひとりでも出したら、岩瀬に代えて下さい」と山本は訴えたという。9月30日の対阪神戦で40歳代としては若林忠志、村田兆治、工藤公康に次いで4人目となる2桁勝利を挙げた。10月15日の対横浜戦ではリリーフで登板し、自身1997年以来9年ぶりで当時のセ・リーグ最年長記録となるセーブを記録(41歳2か月)するなど、11勝7敗1Sの成績を残した。(山本昌 フレッシュアイペディアより)
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山本昌から見た上林誠知
、二軍春季キャンプでの調整を経て、3月3日に、教育リーグの対ソフトバンク戦(ナゴヤ球場)で救援投手としてシーズン初の実戦登板。先頭打者・上林誠知への1球目に、踏み込んだ右足をマウンドの土に取られたことから、右膝に異変を訴えて急遽降板した。さらに、降板後の診察で右膝蓋の靱帯に炎症が生じていることが判明したため、調整が大幅に遅れた。8月9日の対東京ヤクルト戦(ナゴヤドーム)では、先発投手として、およそ1年振りに一軍公式戦で登板。NPBの実働年数(一軍公式戦出場年数)で工藤・中嶋に並ぶ最長記録(29年)を達成したほか、この日が49歳11ヶ月29日に当たることから、自身の持つNPBの最年長記録(登板・出場・先発)も更新した。しかし、登板中に左手の人差し指を自分のスパイクにぶつけたことから、左手人差し指の靭帯を損傷。結局、22球を投げただけで、2回表の途中に降板した。なお、この時の損傷は、シーズン終了までに完治しなかった。(山本昌 フレッシュアイペディアより)
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山本昌から見たフェルナンド・バレンズエラ
3月ころ、生原がドジャースの往年の名投手サンディー・コーファックスに山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼はサイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価だったという。また、これも3月、生原に連れられてロサンゼルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラのピッチング練習を見に行くが、そのスクリューがあまりに衝撃的であったために「投げられる訳がない」と思ったという。その2か月ほど後、チームメイトのメキシコ人内野手ジョゼフ・スパニュオーロが、試合前のキャッチボールでスクリューボールを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらう。後に自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。よく曲がるので、その日の試合でも使ってみたところ、決め球として通用。それ以後の登板に使っていると、1Aのオールスターゲームまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、メジャーリーグのロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。しかし、山本のビデオを見た星野が成長ぶりに呼び戻すことを決定、リーグ優勝を実現するための戦力とするべく、当初1年間のはずであった留学予定が切り上げられた(星野自身は、「そのままメジャーでやらせてあげてもよかったが、球団社長の意向で」と発言している)。このため、ロースター入り・メジャーリーグデビューはならなかった。ベロビーチ・ドジャースでの成績は、13勝7敗、防御率2.00。同じ3月、現地の歯医者で全身麻酔を打たれて丸1日眠り、それから2日間の安静を余儀なくされた。合計3日間ランニングすらしておらず体調も最悪な中で投手が底を尽きたため止む無く登板したが、延長12回から4イニングを投げて勝ち投手になったというエピソードを残した。(山本昌 フレッシュアイペディアより)