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ジェラール・フィリップから見た山田五十鈴
1953年(昭和28年)10月16日、日本で開催された「フランス映画祭」のため来日。当時は今と異なり、来日する欧米スターが少なかったことから、そのフィーバーぶりは並大抵のものではなかったという。京マチ子、田中絹代、三益愛子、山田五十鈴、池部良、木下惠介監督、早川雪洲ら日本映画界のスターたちも歓迎会に出席し、そのときのジェラールの印象について、高峰秀子は雑誌『映画の友』1954年1月号の記事に『逢へば逢ふ程、自然だし、見れば見る程、優雅だし、話せば話す程、そのデリカシイにはただただ感心するばかり、(中略)言ふなれば、「気に入っちゃった」である。(抜粋)』と残している。(ジェラール・フィリップ フレッシュアイペディアより)
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偽れる盛装から見た山田五十鈴
『肉体の盛装』は、近代映画協会の第1回作品として大映に企画を持ち込み、製作担当重役の川口松太郎に監督込みでシナリオを売り込むが、川口に「駄目だね。今時芸者ものなんてはやらんよ」と、にべもない返事で断られてしまった。続いて第三次東宝争議が終結したばかりの東宝と提携して製作し、山田五十鈴(君蝶役)、藤田泰子(妙子役)、志村喬(伊勢浜役)、森雅之(孝次役)の配役で、砧撮影所にセットを2杯作り、京都でロケを行うが、撮影の途中で労組員の大量解雇が発生し、ストライキのためスタッフの大半が京都から引き揚げてしまったため、製作は中止となった。次に企画は東横映画に持ち込むが、マキノ光雄の「うちのカラーには合わない」という意見で陽の目を見なかった。(偽れる盛装 フレッシュアイペディアより)
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五月信子から見た山田五十鈴
「日本座」のメンバーとして地方巡業に参加した後、1917年6月に劇団を離れ、武田正憲・諸口十九・高橋義信らが結成した「新演劇協会」に参加。『茶を作る家』、『椿姫』などを出し物に、各地を巡演する。翌1918年3月東京に戻り、井上正夫主宰の「女優劇」の一員として、浅草・吾妻座の舞台に立つ。同年11月、井上と関係があった松竹合名社に招かれて大阪に移り、大阪松竹所属の「新劇団現代劇」(関西新派)の女優となる。1919年2月の京都・明治座『路二つ』で諸口十九と共演した他、同年5月の神戸・中央劇場『太陽』でも諸口や勝見庸太郎を相手役に主演し、関西新派の幹部女優として活躍する。同年10月に辻野良一・三好栄子らとともに「新声劇」を結成し、『ある伝説の家』を出し物に大阪・道頓堀の弁天座で旗揚げ公演を行う。以後も関西各地を巡演し、大衆的人気を得る。翌1920年6月には山田九州男(山田五十鈴の父)・明石潮・岡本五郎・衣笠みどりらと「国華劇」を結成、弁天座で旗揚げ公演を行った。同じ頃、「新演劇協会」時代の仲間で、当時松竹所属の「成美団」の看板俳優であった高橋義信と結婚。同年11月、国際活映系列の「国際新劇団」に入る。(五月信子 フレッシュアイペディアより)