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村山実から見た岡田彰布
大野久・和田豊・中野佐資の若手選手3人を「少年隊」と命名して売り出し、話題を作るが成績は6位・5位と低迷した。この3人を相手にキャンプで打撃投手を自ら買って出たが、この無茶がたたって股関節を痛め、人工関節手術を受けることになった。当時阪神の選手だった岡田彰布は「当時阪神は前年が大惨敗だったので、村山監督はチームをガラリと変えようとしたのかもしれないが、話をした時はあそこまで激変させるとは思わんかった。最たるものが、大野、和田、中野の「少年隊」だ。この3人をレギュラーに抜擢したのだが、ポジションを与えるのならある程度の実力がないと戦力として機能しない。一方で、平田、佐野さんらの出番が減り、チーム内はいつもモヤモヤしていて、ひとつの方向に向かうという雰囲気ではなかった。阪神は日本一になった85年をピークにチーム力はガクッと落ちていたから、村山監督の2年間も6位、5位と低迷した」と述べている。当時阪神の選手だった嶋尾康史は「村山監督の時は大変だった。ブルペンに電話する前に投手交代がしょっちゅうありました」、投手コーチだった若生智男も「あったね。ブルペンに伝わっていないことが」と語っている(村山実 フレッシュアイペディアより)
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オリックス・バファローズから見た岡田彰布
1月19日にファームとネーミングライツを契約していた穴吹工務店との契約満了に伴い、10年ぶりにファームのチーム名が「サーパス」から一軍と同じ「オリックス・バファローズ」に変更された。2月23日、ビジター用ユニフォームと球団旗のデザイン変更が発表される(後述)。3月28日、関西プロ野球球団初の球団公式チアリーリングチームがデビューし、4月10日にチーム名「Bs Dreams(ビーズ・ドリームズ)」が発表された。この年は、楽天を退団したホセ・フェルナンデスを加えローズ・アレックス・カブレラ・グレッグ・ラロッカの4人でビッグボーイズを結成するなどし、開幕前の野球解説者の予想でも上位にあげられていたが、これら4人の外国人選手全員が死球などで全員が骨折するなど、極度の不運に見舞われ、主力選手の多くが怪我で離脱した。先発投手陣も、前年大活躍をした小松が開幕から大不振に陥ったのをはじめ、近藤が5月から不調に陥り、復帰した平野も開幕直後に体調不良で戦線離脱、開幕から金子と共に好調を維持していた岸田護も故障で離脱した。さらに、抑えの加藤を擁するリリーフ陣も不安定な投球が目立ち、9月以降は先発要員の金子が抑えに起用された。チームは5月に9連敗、6月に7連敗と大型連敗を繰り返し、6月は4勝14敗と大きく負け越して低迷。6月10日から1軍投手コーチ(ベンチ)の赤堀元之をブルペン、1軍投手コーチ(ブルペン)の清川栄治をベンチに配置転換した。6月18日からは1軍チーフ投手コーチの佐々木修を2軍投手コーチに降格、先日1軍投手コーチとなった清川栄治を1軍チーフ投手コーチに昇格する人事を発表している。しかし、これでも好調の兆しは最後まで見られず、優勝した日本ハムに6勝18敗、2位楽天には4勝19敗1分と大きく負け越すなど苦戦を強いられ、9月にはシーズン3度目の6連敗を喫した。9月9日の対楽天戦で敗戦を喫して2年ぶりにシーズン負け越しが決定。9月27日の対ロッテ戦で引き分けになり、勝率差でロッテに及ばなくなったため、2年ぶりに最下位となった。その責任を受けてGMの中村と監督の大石を解任、後任監督には岡田彰布が就任した。(オリックス・バファローズ フレッシュアイペディアより)
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1985年の阪神タイガースから見た岡田彰布
4月17日のバース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発に象徴されるように、ニューダイナマイト打線と呼ばれる強力打線が活躍し、チーム本塁打セ・リーグ記録を更新する219本塁打を記録した。投手陣も中西、福間らリリーフ陣が活躍し、21年ぶりのリーグ優勝と球団史上初の日本一を達成した。(1985年の阪神タイガース フレッシュアイペディアより)
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