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岡田彰布から見た後藤光尊
シーズン序盤はチーム打率が2割を切るなどの極度の打撃不振に陥り一時は最下位となった。交流戦に入ると調子を取り戻し15勝7敗2分の2位と躍進したが、その後は大型連勝と連敗を繰り返し、好不調の波が激しかった。7月2日・3日に福岡ソフトバンクホークスに2日連続のサヨナラ勝ち、そして5日には東北楽天ゴールデンイーグルスにもサヨナラ勝ちをおさめ、阪神監督時代の2008年9月9日 - 11日に東京ヤクルトスワローズ相手に3試合連続サヨナラ勝ちして以来、2回目の3試合連続サヨナラ勝ちを達成したプロ野球史上唯一の監督となり、8月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦で監督通算500勝を達成した。しかし、引き分けでもクライマックスシリーズ(CS)進出だった最終戦に敗れて1毛差で埼玉西武ライオンズに3位を奪われ、チームとして3年ぶりのCS進出・Aクラスを逃した。また、この年は不振に見舞われたキャプテンの後藤光尊やアーロム・バルディリス、さらに中盤には4番のT-岡田といった主力選手を次々に二軍落ちさせるなど、阪神監督時代では余り見られなかった一軍と二軍との選手入れ替えを頻繁に行う采配が見受けられた。自身の幕のなかったポストシーズンには巨人の内紛について評論、サッカー日本代表が野球の陰に隠れてしまうことを憂う一面を見せた。(岡田彰布 フレッシュアイペディアより)
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岡田彰布から見た読売ジャイアンツ
大阪市中央区玉造で町工場を経営していた父親は、阪神の有力後援者で、村山実・藤本勝巳ら選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育った。幼稚園児の頃に、当時のタイガースの三塁手であった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという。後に阪神に入団した岡田が背番号16を希望したのは、かつて三宅がつけていた番号だからである。小学5年の時、南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」で本格的に野球を始めた。この入団は「阪神が少年野球チームを持っていなかった」というのも理由だった。また父の会社では草野球チームを結成し、岡田自身も投手として村山の背番号「11」を付けてマウンドに登った。岡田の証言によれば、野手は阪神二軍の若手選手だったという。また岡田は少年時代からタイガースの試合を見に阪神甲子園球場へ出かけることが多かったが、観戦する場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく、敵側ベンチのある三塁側ベンチ横だった。その場所は阪神のライバル・読売ジャイアンツの三塁手・長嶋茂雄を一番近くで見ることができるので、そこからヤジを飛ばすためという理由だった。(岡田彰布 フレッシュアイペディアより)
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岡田彰布から見た東京ヤクルトスワローズ
入団1年目の、監督のドン・ブレイザーは「岡田はまだ新人。じっくり鍛えた方がいい」という考えの下、岡田に二塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面で通訳兼任コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーリーグでは最初からいきなり試合起用することはない」と告げられ、「そんなん関係ないやん」という反骨心が芽生えたと後に著書に記している。当時は三塁に掛布雅之、遊撃手に真弓明信、二塁手に中村勝広、榊原良行、ヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトンと、岡田の入る場所がなかった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は「なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか」と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという。(岡田彰布 フレッシュアイペディアより)