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美空ひばりから見た島倉千代子
この東京ドーム公演の会場客席には、中村メイコと浅丘ルリ子、森光子や島倉千代子に岸本加世子など、ひばりと特に懇意のある芸能人達も駆けつけていた。ひばりはフィナーレの「人生一路」を歌い終えると、思い通りに歌えなかったのかマイクをスタンドに戻す際に一瞬首を傾げていた(彼女の日記にも、自身が満足のいく出来にできなかったことへの苦悩とこの調子であと何年もつのかという不安が書かれている)。この頃のひばりは既に、体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せて、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。常人であれば歌うことはもちろん、立つことすら難しい病状の中でステージに立った。(美空ひばり フレッシュアイペディアより)
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第33回NHK紅白歌合戦から見た島倉千代子
前回に引き続き曲順発表前に両軍共にトリ候補を事前に公表する試みを行った。紅組は八代亜紀、島倉千代子、都はるみ、白組は五木ひろし、村田英雄、森進一との布陣で発表される。「名曲紅白」とのテーマに沿って「影を慕いて」を歌唱する森の白組トリおよび大トリ起用が先に決定し、その相手として島倉と都が考慮されたが、「影を慕いて」というマイナー演歌に対抗するにはマイナー曲でとの声が高まり、「涙の連絡船」を歌唱する都の選出が決まった。(第33回NHK紅白歌合戦 フレッシュアイペディアより)
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フランク永井から見た島倉千代子
日本レコード大賞では大賞を1回、歌唱賞を2回、特別賞を3回受賞している。NHK紅白歌合戦の常連出場者としても知られ、1957年(昭和32年)の第8回から1982年(昭和57年)の第33回まで連続26回出場し、現役出場時は島倉千代子と並んで最多出場者の記録を持っていた。昭和50年代以後も「おまえに」、「公園の手品師」、"WOMAN"(山下達郎作詞・作曲)などヒット作や話題作を送り出し、1980年代に入ってからも自身の歌の原点であるジャズ・スタンダードを精力的に唄い始めるなど、歌謡界には比較的珍しい非・演歌系の大御所歌手として存在感を示していた。しかし1983年(昭和58年)の「第34回NHK紅白歌合戦」は落選となり、このことは当時の永井にとって大きなショックだったとも言われる。その後は後述の自殺未遂事件の影響で、紅白歌合戦へのカムバック出演を果たすことはできなかった。(フランク永井 フレッシュアイペディアより)
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