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  • 本庄村 (兵庫県武庫郡)

    本庄村 (兵庫県武庫郡)から見た川崎汽船川崎汽船

    甲種実業学校として川崎汽船による私立川崎商船学校の設立が認められたのは大正6年(1917年)の事である。校地は大阪府浜寺から兵庫県明石までに至る大阪湾岸を巨細に調査の結果、北に六甲山を望む景勝地たる深江の海岸、高橋川河口西岸が選ばれた。開設にあたり、海浜の砂留め工事の必要があり、敷地内四ヶ所に2間乃至16間の突堤を築くこととなり、これが漁業に支障ありとして大正7年7月、500円の報償を深江浦漁業組合に寄付する契約を結んで、翌4月に納入された。この工事を出願したのは深江に海浜住宅を最初に建設したエドワード・ハズレット・ハンターの長男範多龍太郎である。本庄村 (兵庫県武庫郡) フレッシュアイペディアより)

  • ヒ68船団

    ヒ68船団から見た川崎汽船川崎汽船

    7月26日未明からラオアグ西方の南シナ海上において再開された襲撃では、被害が続出した。まず、午前3時14分に「フラッシャー」の雷撃により逓信省標準船TM型タンカー「大鳥山丸」(三井船舶:5280総トン)が魚雷2発を受けて、積荷のガソリンが爆発炎上した末、の地点で沈没。ほぼ同時に「安芸丸」も船首付近に魚雷1発を受けて損傷、3分後に「東山丸」も「フラッシャー」の魚雷1発が当たり航行不能となった。この攻撃で「フラッシャー」は残っていた魚雷6発を撃ち尽くした。特設運送艦「聖川丸」(川崎汽船:6862総トン)も、午前5時、浮上してレーダー照準と目視による襲撃をかけた「アングラー」の魚雷1発が船首付近に命中し、浸水したが沈没は免れた。損傷した「安芸丸」はなお12ノットで航行を続けられたが、午前5時半頃に「クレヴァル」から魚雷3発を命中させられ、5分または20分後にで沈没した。「東山丸」は、午前11時47分に潜航中の「クレヴァル」によりさらに魚雷4発を打ちこまれて炎上しながらも浮かんでいたが、翌27日午前4時30分ないし5時に自衛装備の砲弾や爆雷が誘爆を起こし、午前10時45分についにで沈没した。ヒ68船団 フレッシュアイペディアより)

  • 山陽丸 (特設水上機母艦)

    山陽丸 (特設水上機母艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    改装工事終了後、「山陽丸」は「神川丸」(川崎汽船、6,853トン)、「相良丸」(日本郵船、7,189トン)と共に第十二航空戦隊を編成。11月22日に佐世保を出撃し、南方作戦緒戦のマレー作戦では輸送船団援護や対潜哨戒に従事。1942年(昭和17年)に入ってからは「神川丸」とともに蘭印作戦に転じ、1月はタラカン島およびバリクパパン攻略戦の支援にあたる。2月にはジャワ島西部に上陸する第十六軍(今村均中将)主力の援護を務め、3月下旬にはを拠点として水上機基地設営、マラッカ海峡警戒およびアンダマン諸島攻略作戦の援護を行った。7月下旬のタニンバル諸島平定戦に協力した後、「山陽丸」はガダルカナル島の戦いが始まったのをきっかけにソロモン諸島方面へと転戦する。山陽丸 (特設水上機母艦) フレッシュアイペディアより)

  • 畿内丸

    畿内丸から見た川崎汽船川崎汽船

    5月8日早朝、横須賀に向かう第4508船団に加入してトラックを出港する。この第4508船団には他に特設水上機母艦「國川丸」(川崎汽船、6,863トン)、陸軍特殊船「摩耶山丸」(三井船舶、9,433トン)および特設給兵船「辰武丸」(辰馬汽船、7,068トン)が加入しており、水雷艇「鵯」が護衛していた。他の加入船も新鋭船や優秀船であったが、唯一のネックは「辰武丸」がラバウルで低質の石炭を搭載したがために、最高速力が9ノットしか出なくなっていたことだった。速力が遅いと潜水艦に狙われやすくなるため、「辰武丸」を船団から除外するか、二手に分かれて「國川丸」および「摩耶山丸」を先行させるべきと意見具申したものの、いずれの案も却下された。こういった不安を抱えたままトラック北水道を通過して横須賀に向かうも、第4508船団はトラック出港直後からアメリカ潜水艦「プランジャー」 (USS Plunger, SS-179) の追跡を受け続けることとなった。翌9日未明2時11分頃、「國川丸」に「プランジャー」からの魚雷が2本命中するも、いずれも不発であった。午後に入って再び「プランジャー」からの雷撃を受け、「國川丸」の船底に魚雷が1本命中したものの、またもや不発だった。第4508船団は偽航路など策を弄して北上を続けるが、次第に速力に優る「國川丸」および「摩耶山丸」と、低速の「辰武丸」およびそれに付き添う「畿内丸」は離れてゆく。5月10日4時ごろ、の地点で「プランジャー」からの魚雷が命中し、航行不能となる。救援のため「辰武丸」が接近するも、約3時間半後に「プランジャー」からの魚雷が戦隊後部に命中して轟沈した。正午過ぎに再び雷撃され、船橋前部には亀裂が走って沈没の危機が増した。ここに至って「國川丸」および「摩耶山丸」は先行して横須賀へ向かい、「鵯」が護衛のため残留することとなった。5月11日朝、「プランジャー」は浮上して3インチ砲と20ミリ機銃を撃ち込んで止めを刺し、火災が発生した「畿内丸」は8時27分に沈没していった。「畿内丸」の沈没を確認した「プランジャー」は、第4508船団への複数回の攻撃で魚雷を使い切ったため、哨戒を終了してミッドウェー島に針路を向けた。「畿内丸」は7月15日に除籍され、7月20日に解傭された。畿内丸 フレッシュアイペディアより)

  • 国際汽船

    国際汽船から見た川崎汽船川崎汽船

    話は変わって、第一次世界大戦が半ば過ぎた1917年(大正6年)8月、アメリカは鋼材不足の折から日本への鋼材輸出を禁止せざるを得なかった。鉄鋼業が十分に発達していない日本は、船舶用鋼材をアメリカに頼っていたこともあって打撃を受けた。そこで、前記の松方、金子および浅野の3名が代表となってアメリカ政府と大使経由で交渉を重ねた結果、大正7年3月に日米船鉄交換契約が成立し、日本側がアメリカの欲する数の船舶を提供し、見返りにアメリカ側が相応の鋼材や船舶付属品を提供するというこの契約で造船業界は息を吹き返したが、大量建造半ばにして大戦は終わり、せっかく建造した船舶の大半は余る結果となった。川崎造船所も、建造した第一大福丸型貨物船をはじめとするストックボートのうちの何隻かはアメリカ船主などに売却できたが、依然として多数抱えていた。その対策としてまず、造船所内に船舶部を設けて貨物船の運用にあたらせ、次いで川崎汽船を設立して川崎造船所船舶部とは別個に海運業を開始させた。そして、なおも余るストックボートの運用先として、上述の気息奄奄としていた合同運動に目をつけた。元来、川崎造船所は合同運動の旗振り役の一つではあったが、船価問題で静観していた。川崎造船所が合同運動に正式に加わり、ストックボートの提供を表明した時点で、「社外船主が合同する海運会社」の話は一転、「余った大量建造船の運用先となる海運会社」の話に変貌したのである。国際汽船 フレッシュアイペディアより)

  • 畿内丸型貨物船

    畿内丸型貨物船から見た川崎汽船川崎汽船

    畿内丸型貨物船の出現は日本内外の貨物船や流通業界に多大な衝撃を与え、昔ながらの西海岸諸港から大陸横断鉄道に積み替えて輸送するルートに代わり、東海岸の都市に直接物品を輸送する畿内丸型貨物船にニーズが移って行った。その背景には、レートの関係で生糸を一刻も早く輸送する必要があったためでもあった。また、三井物産船舶部(のちの三井船舶)や国際汽船、川崎汽船といった国内のライバルの海運会社も陸続として高速ディーゼル貨物船の導入に躍起となり、結果的には海外の海運会社に持っていかれていた日本産の生糸輸送を日本の手に取り戻す契機となった。当然、西海岸諸港経由のルートでの輸送を頼みにしていた流通業に打撃を与えたが、日本に限って見れば、大きな打撃を受けたのはT型貨物船を中心とする貨物船隊を有していた日本郵船である。昭和8年時点での横浜発のニューヨーク航路における生糸輸送量は、大阪商船40,998俵、川崎汽船21,336俵、三井物産20,750俵に対して日本郵船はゼロであった。生糸を積み取れない日本郵船の貨物船はフィリピン産の砂糖ぐらいしか目ぼしい貨物が残っていなかった。日本郵船も決して無策ではなかったが、「浅間丸」や「氷川丸」など命令航路向けの新鋭貨客船の導入時期と重なって投資に限界を示していたこともあり、ライバルが高速船をぶつけてくるのを、当面はただ見ているしかなかった。日本郵船が本格的に貨物船隊刷新に取り組み、第一陣N型貨物船を投入してくるのは1934年(昭和9年)のことである。畿内丸型貨物船 フレッシュアイペディアより)

  • 小樽高等商業学校

    小樽高等商業学校から見た川崎汽船川崎汽船

    君島興一 - 川崎汽船社長(1946?49年)小樽高等商業学校 フレッシュアイペディアより)

  • 中国遠洋運輸集団

    中国遠洋運輸集団から見た川崎汽船川崎汽船

    中国遠洋運輸(集団)公司(ちゅうごくえんよううんゆしゅうだんこうし、英文名称:'、簡体字:')は、中華人民共和国の海運会社グループ。COSCO(コスコ)や''の略称で知られる。2009年8月現在のコンテナ輸送量はTEU換算469,848で世界7位、船舶数は146隻で世界5位。日本の川崎汽船、台湾の陽明海運、韓国の韓進海運とともに、CKYHアライアンスを構成している。中国遠洋運輸集団 フレッシュアイペディアより)

  • ラエ・サラモアへの空襲

    ラエ・サラモアへの空襲から見た川崎汽船川崎汽船

    第六水雷戦隊のうち、旗艦「夕張」は作戦支援、第二十九駆逐隊(「追風」、「朝凪」、「夕凪」)は陸軍輸送船「横浜丸」(日本郵船、6,143トン)および「ちゃいな丸」(川崎汽船、5,869トン)を護衛してサラモアへ、第三十駆逐隊のうち「睦月」と「弥生」は「津軽」艦長稲垣義龝大佐指揮の下で特設巡洋艦「金剛丸」(国際汽船、8,624トン)、特設敷設艦「天洋丸」(東洋汽船、6,843トン)および特設運送船「黄海丸」(嶋谷汽船、3,871トン)を護衛してラエに向かうこととなり、「望月」は特設水上機母艦「聖川丸」(川崎汽船、6,862トン)の護衛に回った。「金剛丸」と「天洋丸」は、ラバウル警備隊から抽出された陸戦部隊560名と高射砲隊、ラエに配備される基地員800名や需品の輸送にもあたった。なお、当初は攻略部隊に名を連ねていた特設巡洋艦「金龍丸」(国際汽船、9,309 トン)は、スルミ攻略戦で損傷したためラバウル待機となった。「横浜丸」と「ちゃいな丸」に乗船する陸軍部隊は、南海支隊のうち堀江正陸軍少佐指揮の歩兵一個大隊、山砲一個中隊を主軸とした約2,000名で構成されていた。ラエ・サラモアへの空襲 フレッシュアイペディアより)

  • ニッポン・ハイウエー

    ニッポン・ハイウエーから見た川崎汽船川崎汽船

    ニッポン・ハイウエーは、川崎汽船が所有している自動車運搬船。ニッポン・ハイウエー フレッシュアイペディアより)

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