181件中 11 - 20件表示
  • 川崎重工業

    川崎重工業から見た川崎汽船川崎汽船

    自衛隊の潜水艦や航空機、ミサイルの製造もおこなう国内有数の防衛産業でもあり、防衛装備受注金額では2015年度の防衛中央調達額で三菱重工業を抜いて日本第1位、世界第28位に位置する。神戸を拠点とする有数の関西系企業でもある。かつては川崎財閥(松方コンツェルン)の主要企業であった経緯から、川崎製鉄(現JFEスチール)・川崎汽船とも関係がある。本社は神戸市中央区の神戸クリスタルタワーであり、東京都港区海岸に東京本社も設置している。川崎重工業 フレッシュアイペディアより)

  • 商船三井

    商船三井から見た川崎汽船川崎汽船

    日本郵船・川崎汽船と並ぶ日本の三大海運会社の1社、連結純利益、連結売上高および時価総額で国内2位。LNG輸送分野に強みを持つ。コンテナに記される「アリゲーター」印は柳原良平デザイン。ファンネルマーク(煙突の印)はなく、煙突は橙一色。商船三井 フレッシュアイペディアより)

  • 国際汽船

    国際汽船から見た川崎汽船川崎汽船

    話は変わって、第一次世界大戦が半ば過ぎた1917年(大正6年)8月、アメリカは鋼材不足の折から日本への鋼材輸出を禁止せざるを得なかった。鉄鋼業が十分に発達していない日本は、船舶用鋼材をアメリカに頼っていたこともあって打撃を受けた。そこで、前記の松方、金子および浅野の3名が代表となってアメリカ政府と大使経由で交渉を重ねた結果、大正7年3月に日米船鉄交換契約が成立し、日本側がアメリカの欲する数の船舶を提供し、見返りにアメリカ側が相応の鋼材や船舶付属品を提供するというこの契約で造船業界は息を吹き返したが、大量建造半ばにして大戦は終わり、せっかく建造した船舶の大半は余る結果となった。川崎造船所も、建造した第一大福丸型貨物船をはじめとするストックボートのうちの何隻かはアメリカ船主などに売却できたが、依然として多数抱えていた。その対策としてまず、造船所内に船舶部を設けて貨物船の運用にあたらせ、次いで川崎汽船を設立して川崎造船所船舶部とは別個に海運業を開始させた。そして、なおも余るストックボートの運用先として、上述の気息奄奄としていた合同運動に目をつけた。元来、川崎造船所は合同運動の旗振り役の一つではあったが、船価問題で静観していた。川崎造船所が合同運動に正式に加わり、ストックボートの提供を表明した時点で、「社外船主が合同する海運会社」の話は一転、「余った大量建造船の運用先となる海運会社」の話に変貌したのである。国際汽船 フレッシュアイペディアより)

  • 海軍予備員

    海軍予備員から見た川崎汽船川崎汽船

    森武:神戸高等商船学校航海科卒業。海軍少佐。川崎汽船を経て海軍に。海防艦82号艦長。終戦間際、ソ連軍機襲撃下の北朝鮮羅津港最後の脱出商船向日丸(むかひまる)を護衛して元山向け航行中に舞水端南西沖でソ連雷撃機編隊と交戦3機撃墜後、自艦が被雷轟沈。生存将兵を向日丸が救出。戦後、海上保安庁、大阪造船所を経て日立港水先案内人。海軍予備員 フレッシュアイペディアより)

  • 東城丸

    東城丸から見た川崎汽船川崎汽船

    竣工後、ヒ91船団に加わって1月26日に門司を出港し、昭南(シンガポール)に向かう。船団は出港2日後の1月28日未明にアメリカ潜水艦「スペードフィッシュ」 (USS Spadefish, SS-411) の攻撃により特設運送船「讃岐丸」(日本郵船、9,246トン)と海防艦「久米」を失うが、「東城丸」はタンカー「永洋丸」(日本油槽船、8,673トン)とともに大陸沿岸、海南島、インドシナ半島沿岸に沿って南下を続け、2月8日に昭南に到着した。昭南で航空ガソリン16,000トン、重油1,285トンなどを搭載し、ヒ92船団に加わって2月18日午後に昭南を出港して日本に向かった。しかし、出港して2時間半後に触雷して気缶を損傷。応急修理の上航海を続けた。2月22日に同航のタンカー「第二建川丸」(川崎汽船、10,045トン)が触雷沈没し、2月25日にはアメリカ潜水艦「ホー」 (USS Hoe, SS-258) の雷撃で海防艦「昭南」を失うが、「東城丸」は単独で楡林に向かって、同地で機関整備を行う。その後は対潜掃討を終えた第25号海防艦とともに大陸沿いを北上し、汕頭、舟山群島、釜山港外を経て3月11日に門司に帰還した。搭載物資を下津港で陸揚げののち、生まれ故郷の播磨造船所に回航され、触雷による損傷の修理を行ったが、その最中に終戦を迎えた。東城丸 フレッシュアイペディアより)

  • ガヴィナ (潜水艦)

    ガヴィナ (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    4月6日、ガヴィナは最初の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。4月19日、ガヴィナはの鳥島近海でトロール船を発見し、魚雷を3本発射して1本が命中したものの不発だった。4月22日の明け方には、の地点でデッキに材木と貨物を搭載していた2隻の475トン級トロール船をレーダーで探知した上で接近し、砲撃で1隻を撃沈。4月25日朝にはの地点で大型輸送船を発見し、魚雷を4本発射したが命中せず、続いて魚雷をもう3本発射してすべてを命中させ、23発の爆雷攻撃に遭ったものの目標は沈没したと判断された。翌4月26日朝、ガヴィナはの地点で中型輸送船3隻、小型輸送船1隻、護衛艦3隻の7隻からなる輸送船団を発見。このうちの2隻に対して魚雷を3本ずつ計6本発射し、1隻には3本すべてが命中し、別の爆発音から、もう1隻にも魚雷が2本命中したと判断された。しかし、護衛艦の制圧を受けてガヴィナはその様子を観察できず潜航した。ガヴィナは一連の攻撃で、輸送船能代丸(川崎汽船、2,333トン)を撃沈した。5月21日から26日までは、ウェーク島沖で空襲を行ったB-24の支援任務に従事した。5月28日、ガヴィナは52日間の行動を終えてマジュロに帰投した。ガヴィナ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • バング (潜水艦)

    バング (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    3月29日、バングは最初の哨戒でパーチー (USS Parche, SS-384) 、ティノサ (USS Tinosa, SS-283) とウルフパックを構成しルソン海峡方面に向かった。ミッドウェー島で補給ののち、3隻は4月16日に台湾南方の航路帯に到着した。4月29日、バングは80キロ先にタマ17船団を探知し、ウルフパックでこの船団に向かっていった。22時ごろ、バングは竹川丸(川崎汽船、1,930トン)の右舷に魚雷を命中させ撃沈。翌30日の夜明けには日達丸(日産汽船、2,859トン)を撃沈した。5月3日朝、ティノサが7隻の輸送船団、楡林から九州に向かうテ04船団を発見、報告を行い、バングとパーチーはこれを迎え撃つためティノサとともに全速力で北方へ向かった。翌5月4日、ティノサが豊日丸(大同海運、6,436トン)を撃沈したのを手始めにバング、パーチーも船団に対して雷撃を行い、バングは浮上したまま西方に逃げてきた船団を迎え撃って、1時7分にの地点で金嶺丸(東亜海運、5,949トン)を撃沈した。駆逐艦の破壊も主張したが、これは認められなかった。他にティノサが豊日丸と大武丸(大阪商船、6,440トン)を、パーチーが大翼丸(大阪商船、5,244トン)と昌龍丸(大連汽船、6,475トン)をそれぞれ撃沈し、その総トン数は30,542トンで楡林丸(拿捕船、6,022トン)を逃した以外は完勝だった。バングはこの攻撃で魚雷を使い果たしたため5月6日に哨戒海域を去った。5月14日、バングは46日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。潜水母艦プロテウス (USS Proteus, AS-19) による整備を受けた。バング (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • レイポン (潜水艦)

    レイポン (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    1944年2月13日、レイポンは3回目の哨戒で南シナ海に向かった。レイポンは隅々まで目を凝らして目標を探し出し、戦果を挙げていった。3月8日午後、レイポンはの香港南東380キロ地点でタサ08船団を発見。魚雷を4本発射し、輸送船豊国丸(日本製鐵、5,792トン)に魚雷が命中して同船を航行不能に陥らせた。豊国丸は香港に向かうこととなり、輸送船日鈴丸(日産汽船、5,396トン)が曳航したが、翌2月9日未明の地点で日鈴丸と豊国丸に対して魚雷を3本ずつ発射し、反転してさらに魚雷を4本発射。魚雷は日鈴丸に命中して撃沈し、曳航船を失った豊国丸も漂流した後沈没していった。3月10日朝にはの地点で浮上砲戦で25トン漁船を破壊。翌3月11日、レイポンはの地点で2つの大型マストを発見。さらに観測すると、相手は2隻の「山城型戦艦」と空母、重巡洋艦を含む艦隊だった。リンガ泊地に向かう空母瑞鶴、戦艦金剛および榛名、重巡洋艦最上、第十戦隊からなる艦隊レイポンに気づかず、またレイポンも瑞鶴におよそ5,000ヤード、最上に3,200ヤードにまで接近したが攻撃はできず、艦隊をやり過ごしてから浮上して情報を打電した。3月15日にもの地点で75トン漁船を発見して浮上砲戦で破壊。3月16日夜、レイポンはの地点でタマ11A船団を発見し、魚雷を6本発射。爆発を3つ確認したものの、実際には、魚雷は特設運送船國川丸(川崎汽船、6,863トン)に向かっていったが、命中しなかった。3月17日夜にはの地点でヒ48船団を発見。3月18日未明にいたり、の地点で魚雷を4本発射し、特設運送船北陸丸(大阪商船、8,365トン)に2本目から4本目の魚雷が命中し、北陸丸は大爆発を起こして轟沈した。4月1日、レイポンは47日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。レイポン (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • セネット (潜水艦)

    セネット (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    7月1日、セネットは4回目の哨戒で日本海に向かった。これより先の6月に実施されたバーニー作戦以降、アメリカ潜水艦にとって日本海は特別な海域ではなくなっていた。7月28日、セネットはの津軽海峡西方沖で萩川丸(川崎汽船、2,995トン)を、秋田県入道崎沖で第十五雲海丸(中村汽船、1,208トン)と柏栄丸(日東汽船、2,864トン)の合計3隻を撃沈。7月30日にもの北海道茂津多岬灯台沖で裕山丸(興国汽船、6,038トン)を撃沈した。セネットはこの哨戒で4隻13,105トンの戦果を挙げ、一哨戒で10,000トン以上の戦果を挙げた最後のアメリカ潜水艦となった。8月9日、セネットは34日間の行動を終えてサイパン島に帰投した。セネット (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • アイスフィッシュ (潜水艦)

    アイスフィッシュ (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    9月9日、アイスフィッシュは最初の哨戒でソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) 、ドラム (USS Drum, SS-228) とウルフパック「バニスターズ・ビーグルズ Banister's Beagle's」(指揮はソーフィッシュ艦長アラン・B・バニスター中佐(アナポリス1928年組)を構成しルソン海峡および南シナ海方面に向かった。1944年10月はアメリカ潜水艦による日本船撃沈のピークであった。撃沈トン数は322,265トンに上り、そのおよそ3分の1はタンカーであった。10月にアイスフィッシュとソーフィッシュ、ドラムは、「コンボイ・カレッジ」のコードネームで呼ばれる東シナ海のルソン海峡から台湾、中国沿岸の海域において共同で敵船を沈め、そのトン数は26,901トンに上った。「バニスターズ・ビーグルズ」はルソン海峡でシャーク (USS Shark, SS-314) 、シードラゴン (USS Seadragon, SS-194) 、ブラックフィッシュ (USS Blackfish, SS-221) からなる別のウルフパックと、それとは別の行動をとっていたスヌーク (USS Snook, SS-279) と合流。2つのウルフパックとスヌークは、10月23日に折からの悪天候の中を航行中のマタ30船団を発見。ソーフィッシュが元特設水上機母艦君川丸(川崎汽船、6,863トン)を撃沈したのを手始めに、次々と輸送船を撃沈していった。アイスフィッシュは翌10月24日6時5分、の地点で天晨丸(瑞光商船、4,236トン)に魚雷を2本命中させて撃沈した。マタ30船団に対する攻撃では、君川丸を含め合計9隻の貨物船および輸送船を撃沈する戦果を挙げたが、シャークが駆逐艦春風の反撃を受けてついに帰らなかった。2日後の10月26日、「バニスターズ・ビーグルズ」はの地点で南下してくるモマ05船団を発見。アイスフィッシュは泰洋丸(東海汽船、4,168トン)を撃沈したが、直後に駆潜艇の反撃を受け、爆雷16発を投下された。深度120メートルを超す深さまで潜航したが、水圧系に損傷を受けて艦内は水浸しとなり、火災も発生した。損傷の程度は大きく、アイスフィッシュは哨戒を打ち切った。11月13日、アイスフィッシュは61日間の行動を終えてマジュロに帰投した。アイスフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

181件中 11 - 20件表示

「川崎汽船」のニューストピックワード