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  • フライングフィッシュ (潜水艦)

    フライングフィッシュ (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    リレー式に対馬海峡を突破したシードッグ以下の潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時と定められていた攻撃開始を待った。「リッサーズ・ボブキャッツ」は朝鮮半島東岸に進出した。6月10日午前、フライングフィッシュはの清津港沖で海上トラック(2E型戦時標準船)と目された輸送船多賀丸(日之出汽船、2,220トン)を発見して、魚雷を3本発射してこれを撃沈。翌6月11日未明にはの羅津沖26海里の地点で陸軍船明星丸(川崎汽船、1,893トン)に対して魚雷を3本発射して撃沈した。6月13日昼ごろにはの地点で4,000トン級輸送船とトロール船型護衛艦を発見し、それぞれの目標に対して魚雷を3本ずつ発射したが、この攻撃は成功しなかった。さらに6月15日にはの清津港と羅津間の海域でレーダーにより小型ボートの群れを探知し、2時間ばかりの攻撃で10隻ばかりを撃沈して2隻を海岸に座礁させた。6月20日午後にもの清津港近海で6,700トン級輸送船に対して魚雷を3本発射したが、1本が海岸に命中して爆発し、他の2本も命中せず、輸送船は清津港に引き返していった。フライングフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • デイス (潜水艦)

    デイス (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    5月25日、デイスは7回目の哨戒でカベゾン (USS Cabezon, SS-334) とともに千島列島およびオホーツク海方面に向かった。6月8日に国後島近海の哨戒海域に到着し、早々にの地点でさっそく獲物にありつき、海上トラックとを浮上砲戦で撃沈した。6月9日にアポゴン (USS Apogon, SS-308) およびマンタ (USS Manta, SS-299) と合流。6月10日、デイスは霧の中を、護衛艦を配した輸送船とタンカーがやってくるのを探知した。以後追跡を続け、の占守島沖で3つの目標に、とマーク28型誘導魚雷、通常の魚雷をそれぞれ1本ずつ発射。魚雷は海軍徴傭船博洋丸(九州郵船、1,391トン)に命中して撃沈。反撃を受けたので、護衛艦に魚雷を発射した後、深深度潜航で逃れた。6月18日夜、アポゴンとカベゾンは幌筵島から出てきたばかりの輸送船団を発見し、アポゴンが輸送船博愛丸(日本海洋漁業、2,614トン)を、カベゾンが輸送船蔵王山丸(川崎汽船、2,631トン)をそれぞれ撃沈した。離れた場所で爆発を確認していたデイスは、6月19日未明にの地点で、船団を護衛していた護衛艦を発見し、マーク27誘導魚雷とマーク28型誘導魚雷を含む魚雷を4本発射。2本が命中したと判断され、さらに魚雷を4本発射する。攻撃後、36発に及ぶ爆雷攻撃を受けたがこれを切り抜けた。6月23日夜にはの地点で、海岸に向けて4発の5インチ砲弾を撃ち込んだ。7月10日、デイスは46日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。デイス (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • ポンポン (潜水艦)

    ポンポン (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    7月10日、ポンポンはビスマルク諸島、トラック諸島およびカロリン諸島方面に向かった。7月16日、日本海軍の潜水艦がポンポンに向けて2本の魚雷を発射したが、両方ともポンポンの前方を通過した。トラック沖での哨戒では僚艦と共に偵察ラインを形成し、日本艦隊の動向を監視してソロモン諸島方面で戦闘を続けている第7艦隊の作戦支援を行った。7月25日、ポンポンはのマヌス島北北東約560キロの水域で第2323船団を発見し、スコールをかわして追跡した末に、夕刻にいたって魚雷を4本ずつ二度にわたって発射。魚雷は陸軍輸送船ていむず丸(川崎汽船、5,871トン)に命中してこれを撃沈し、特設運送船金泉丸(朝鮮郵船、3,081トン)にも魚雷を2本命中させ船体の前部をもぎ取ったが、金泉丸は沈没を免れた。護衛艦は攻撃回避に精一杯であり、ポンポンは易々と立ち去った。8月22日、ポンポンは43日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。ポンポン (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • ピンタド (潜水艦)

    ピンタド (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    5月16日、ピンタドは最初の哨戒でシャーク (USS Shark, SS-314) 、パイロットフィッシュ (USS Pilotfish, SS-386) とウルフパックを構成しマリアナ諸島および台湾方面に向かった。ピンタドはウルフパックの旗艦となり、レオン・P・ブレア大佐が座乗した。5月20日から21日にミッドウェー島で補給を行い、マリアナ沖の担当海域に到着。31日、ウルフパックは偵察ラインを形成し、シルバーサイズ (USS Silversides, SS-236) から報告された船団を探索する。ウルフパックは一晩かけて輸送船団を発見すると、攻撃態勢に入った。ピンタドは夜明け前に攻撃位置に達し、目標に向けて6本の魚雷を発射。魚雷は東豊丸(大連汽船、4,716トン)に命中し、東豊丸はの地点で沈没した。ピンタドは640メートルの至近に護衛艦がいたものの、2回目の攻撃のため船尾発射管を目標に向けるべく大胆に旋回。準備を終え魚雷を発射し、爆発は確認されたが沈没までには至らなかった。ピンタドは日本海軍駆逐艦の猛烈な反撃をよそに、この海域を去った。6月4日正午ごろ、ピンタドはサイパン島に向かう新たな輸送船団である第3530船団を発見。シャークとパイロットフィッシュを伴い船団を迎え撃った。15時29分、シャークが勝川丸(川崎汽船、6,886トン)を撃沈し、翌6月5日16時45分にも高岡丸(日本郵船、7,006トン)と貨物船たまひめ丸(浜根汽船、3,080トン)を撃沈して船団に大きな打撃を与えつつあった。ピンタドは6月6日、奇しくもノルマンディー上陸作戦当日にの地点で複数の目標に向けて魚雷を発射。魚雷は鹿島山丸(三井船舶、2,825トン)とはあぶる丸(大阪商船、5,652トン)に命中し、爆発が起こって船体を木っ端微塵にした。哨戒機と5隻の護衛艦が対潜攻撃で50発の爆雷や対潜爆弾を投下したものの、ピンタドに被害はなかった。ピンタドとシャークの戦果は、サイパンの戦いを控えてサイパン島の戦備増強に努めていた陸軍には大打撃の一つとなった。3530船団は加入船のうちほぼ半分を喪失し、3530船団に乗船していた第43師団の兵員の多くは救助されたものの兵器や装備は亡失。サイパンに上陸しても、もはや時間的余裕はないに等しかった。7月1日、ピンタドは46日間の行動を終えてマジュロに帰投した。ピンタド (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 塩屋 (軽質油運搬艦)

    塩屋 (軽質油運搬艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    仮称艦名「第220号艦」。1941年(昭和16年)度マル臨計画2次計画により三菱重工業長崎造船所で建造され、1943年(昭和18年)11月9日に竣工。佐世保鎮守府籍となり、同日に連合艦隊付属となる。塩屋の竣工後の行動は断片的にしか判明していないが、1944年(昭和19年)1月6日に、特務艦足摺、特設運送船(給油)興川丸(川崎汽船、10,043トン)とともに臨時M船団を編成し、第36号哨戒艇の護衛を得て高雄を出港。マニラまではヒ29船団と同行し、1月9日にマニラに到着後分離してタラカン島経由、1月15日にバリクパパンに到着する。以後、バリクパパンとダバオ間の軽質油輸送などに従事。5月はほとんどの期間を第30号掃海艇とともに行動する。5月4日、塩屋はバリクパパンを出港し、5月6日にダバオに到着した。補給の後5月9日にダバオを後にして、サンボアンガを経由し5月11日にセブに到着。5月14日にセブを出港してバリクパパンに向かうが、5月15日午後には潜水艦を発見し、これと交戦しようとした第30号掃海艇に対して攻撃制止の令を出してバリクパパンに急ぎ、5月16日に到着した。5月23日に第30号掃海艇の護衛で再びダバオへ向けて出港するが、翌5月24日に潜水艦の攻撃を受ける。第30号掃海艇および哨戒機とともに爆雷を投下して潜水艦を制圧した後、5月25日にダバオに到着した。塩屋 (軽質油運搬艦) フレッシュアイペディアより)

  • 有馬山丸

    有馬山丸から見た川崎汽船川崎汽船

    三井船舶唯一の残存優秀船であった「有馬山丸」は、戦後初期の遠洋航海の主力として活躍した。GHQの日本商船管理局(:en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-A016の管理番号を与えられた「有馬山丸」は、復員兵・引揚者輸送のため南方各地へ赴いた。例えば、1946年(昭和21年)7月-10月の第6次航海ではシンガポール経由でラングーンへ往復している。船舶運営会による統制下でタイ産米の輸入にも従事したが、横浜帰港時の1949年(昭和24年)4月25日に座礁事故を起こした。1950年(昭和25年)10月には、朝鮮戦争の影響でフィリピン産の砂糖輸送のためニューヨークへの不定期航路に配船され、戦後の日本船として初めてのニューヨーク入港を果たしている。その後、川崎汽船の「聖川丸」による北米不定期航路再開(1950年8月)の実績をふまえニューヨーク定期航路再開の申請がなされ、1951年(昭和26年)6月に「有馬山丸」による月1便の待望のニューヨーク定期航路再開が実現した。有馬山丸 フレッシュアイペディアより)

  • パイク (SS-173)

    パイク (SS-173)から見た川崎汽船川崎汽船

    7月22日、パイクは8回目の哨戒でマリアナ諸島方面に向かった。8月5日、パイクはの南鳥島近海で海軍徴傭船昌寿丸(川崎汽船、1,991トン)を撃沈した。翌8月6日には、の地点で空母大鷹と吹雪型駆逐艦を発見する。目標は20ノットから22ノットの速力でジグザグ航行しており、やがて爆雷攻撃が始まるが、大鷹に対して外装発射管に装填分も含めた魚雷6本を発射。大鷹撃破と判断されたものの、実際には魚雷は命中しなかった。8月22日にはの地点で6隻の輸送船団を発見し、翌23日にまたがる三度の攻撃の末、陸軍輸送船東運丸(岡田商船、1,965トン)を撃破した。9月9日、パイクは50日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。これがパイクの最後の哨戒となった。パイク (SS-173) フレッシュアイペディアより)

  • OKAMURA

    OKAMURAから見た川崎汽船川崎汽船

    1933年(昭和8年)8月 岡村商会設立。三菱重工、川崎汽船などと取引を開始する。OKAMURA フレッシュアイペディアより)

  • ボーフィン (潜水艦)

    ボーフィン (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    2月28日、ボーフィンは4回目の哨戒でセレベス海方面に向かった。3月10日、ボーフィンは2、3隻の護衛艦を伴った4隻の輸送船団を発見。魚雷を6本発射したが、そのうちの4本が途中で爆発してしまった。上空の哨戒機が制圧してきたので、ボーフィンは深く潜航することを余儀なくされ、残り2本の魚雷の行方を観測することは出来なかった。護衛艦は爆雷攻撃を行い、ボーフィンを激しく揺さぶったものの、ボーフィン自体に損傷はなかった。爆雷攻撃が止んでから浮上すると、曳航されている貨物船を発見。ボーフィンは輸送船団に再度の攻撃をかけたが、反撃を食らって再び潜航。翌11日に再度、損傷した貨物船を攻撃。護衛艦の反撃で一旦下がったものの、再度接近して魚雷を4本発射。の地点で、単船になっていた月川丸(川崎汽船、4,673トン)を撃沈した。ボーフィンは日没後に先の輸送船団を追跡し、魚雷を発射したものの命中しなかった。ボーフィンは3月15日にダーウィンに寄港して補給を受け、3日後に再出撃。3月18日には小輸送船団を発見し、魚雷を6本発射したものの、目標の下を通過したかその他の理由により命中しなかった。無意味な爆雷攻撃のあとに再度の攻撃で魚雷を4本発射したが、結局無駄に終わった。ボーフィン (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • サーモン (SS-182)

    サーモン (SS-182)から見た川崎汽船川崎汽船

    10月10日、サーモンは5回目の哨戒でルソン島方面、コレヒドール島沖およびスービック湾口に向かった。11月10日の夜、サーモンはスービック湾の近くを移動する大型サンパンに対して警告を行う。船は警告を無視した後停船を命じられ、サーモンは船首に砲撃を行った。その後検査を行うためサーモンはサンパンに接近したが、サンパンは甲板室に旭日旗を掲示しており、乗組員は反対側から積み荷を投棄しようとしていた。サーモンの乗員は50口径機銃で銃撃を行った。サンパンは停止しサーモンの乗員が乗船したが、日本兵は反対側から海に飛び込んだ後であった。彼らは文書や無線機、その他の指令書を廃棄しサンパンを炎上させた。サーモンが離れると共に、敵船は爆発し沈没した。11月17日、サーモンはマニラ湾入り口でマニラに入りつつあった第726船団を発見し、攻撃のため移動した。それぞれの船に対して雷撃を行い、2隻のタンカーに損傷を与えたと判断され、もう1隻の貨物船おれごん丸(川崎汽船、5,873トン)を撃沈した。12月7日、サーモンは58日間の行動を終えて真珠湾に帰投。翌12月8日にメア・アイランド海軍造船所に向けて出航し、13日に到着。改修作業のため1943年3月30日まで同所に留まった。改修には新型レーダーの装備および20ミリ機銃の装着、艦橋形状の改修等が含まれた。作業完了後、1943年4月8日に真珠湾に戻った。この間に、艦長がニコラス・J・ニコラス少佐(アナポリス1932年組)に代わった。サーモン (SS-182) フレッシュアイペディアより)

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