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  • バング (潜水艦)

    バング (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    3月29日、バングは最初の哨戒でパーチー (USS Parche, SS-384) 、ティノサ (USS Tinosa, SS-283) とウルフパックを構成しルソン海峡方面に向かった。ミッドウェー島で補給ののち、3隻は4月16日に台湾南方の航路帯に到着した。4月29日、バングは80キロ先にタマ17船団を探知し、ウルフパックでこの船団に向かっていった。22時ごろ、バングは竹川丸(川崎汽船、1,930トン)の右舷に魚雷を命中させ撃沈。翌30日の夜明けには日達丸(日産汽船、2,859トン)を撃沈した。5月3日朝、ティノサが7隻の輸送船団、楡林から九州に向かうテ04船団を発見、報告を行い、バングとパーチーはこれを迎え撃つためティノサとともに全速力で北方へ向かった。翌5月4日、ティノサが豊日丸(大同海運、6,436トン)を撃沈したのを手始めにバング、パーチーも船団に対して雷撃を行い、バングは浮上したまま西方に逃げてきた船団を迎え撃って、1時7分にの地点で金嶺丸(東亜海運、5,949トン)を撃沈した。駆逐艦の破壊も主張したが、これは認められなかった。他にティノサが豊日丸と大武丸(大阪商船、6,440トン)を、パーチーが大翼丸(大阪商船、5,244トン)と昌龍丸(大連汽船、6,475トン)をそれぞれ撃沈し、その総トン数は30,542トンで楡林丸(拿捕船、6,022トン)を逃した以外は完勝だった。バングはこの攻撃で魚雷を使い果たしたため5月6日に哨戒海域を去った。5月14日、バングは46日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。潜水母艦プロテウス (USS Proteus, AS-19) による整備を受けた。バング (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • レッドフィッシュ (潜水艦)

    レッドフィッシュ (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    10月25日、レッドフィッシュは2回目の哨戒で東シナ海に向かった。途中、補給でサイパン島に寄港し11月3日に出航、哨区に到着した。11月20日、レッドフィッシュはの地点で大型のサンパンを発見し、浮上砲戦で撃沈。2日後の11月22日にも、の地点で20トン程度のサンパンを発見、これも浮上砲戦で撃沈した。11月22日22時37分ごろ、レッドフィッシュはの与那国島西方で基隆から那覇に向かっていたタカ206船団を発見し、バング (USS Bang, SS-385) とともに攻撃。レッドフィッシュが鳳山丸(南日本汽船、2,552トン)を、バングが天草丸(大阪商船、2,345トン)と栄丸(川崎汽船、2,878トン)をそれぞれ撃沈した。その後北上し、12月8日夜、レッドフィッシュは長崎県野母崎沖の女島灯台付近で、SJレーダーで日本艦隊らしき目標を探知した。この艦隊は、フィリピンへ緊急物資輸送を実施し、帰途台湾で合流した戦艦榛名、重巡洋艦利根、駆逐艦3隻とともに佐世保に向かっていた航空母艦隼鷹を中心とする艦隊であった。レッドフィッシュは至近の僚艦シーデビル (USS Seadevil, SS-400) などに艦隊の存在を通報するとともに、自身も艦隊を追跡した。艦隊は高速でジグザグコースを取っておりやや雷撃しにくい体勢が続いたが、翌9日1時33分に絶好の射点につき、隼鷹へ向けて魚雷6本を発射した。1時34分、このうちの1本が隼鷹の右舷のやや後部に命中。命中直後こそ隼鷹は航行可能だったが、程なく爆発が起きて航行不能となった。レッドフィッシュは止めを刺そうとし、旋回して艦尾の発射管から魚雷を4本発射。そのうち1本が右舷艦首部に命中した。隼鷹は右舷へ30度傾いたまま微速航行を続け佐世保に帰投。沈没につながる幸い致命的な被害は食い止められたものの、このときの損傷により、隼鷹は終戦まで戦列に復帰することができなかった。攻撃後、レッドフィッシュは再び南に向かった。レッドフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • シーデビル (潜水艦)

    シーデビル (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    3時20分、シーデビルは船団との距離がおよそ3,000メートルに達し、レーダーは11個以上の目標を明確に探知。天候はやや不利だったものの、シーデビルは攻撃態勢に入った。3時22分、シーデビルは自艦の100メートル以内に浮遊機雷があるのを発見しこれをかわした。シーデビルは波で大きく揺らされたものの、10分後には船団の側面に位置して潜航した。月没は4時ごろであり、潜望鏡で観測するには条件が悪くなった。4時13分には護衛艦を確認したが、気付かれなかった。4時14分、シーデビルはマーク18型魚雷4本を中型貨物船に向けて発射したものの、命中しなかった。4時24分には、5番発射管と6番発射管の魚雷を大型貨物船に向けて発射。40秒後魚雷は輸送船はわい丸(南洋海運、9,467トン)に命中し、はわい丸は大爆発を起こして40秒で沈没していった。4時25分、シーデビルは船団の真ん中に位置し、4時28分に護衛艦がシーデビルの至近を通過。4時29分、シーデビルは距離1,200メートルにある大型貨物船に対して、艦尾発射管から4本の魚雷を発射。潜望鏡を廻してみると、わずか140メートルのところに、魚雷を向けた貨物船より大型の貨物船がいるのを発見。この貨物船はシーデビルの方に突進してきてるようであった。4時30分、魚雷は安芸川丸(川崎汽船、6,895トン)に命中。何度も続いた物凄い爆発と衝撃はシーデビルでも感じられ、その様子から相手には弾薬が満載されていたのだろうと判断された。シーデビルは攻撃後、150メートルの海底でじっとした。はっきりと確認できただけで12発の爆雷が投下されたが、シーデビルの近くには落ちてこなかった。やがて、爆雷攻撃の音は遠ざかっていった。ミ29船団は、シーデビルによる安芸川丸とはわい丸の撃沈で支離滅裂となり、奄美大島や台湾各地に個別に逃げ込む輸送船が続出した。このとき撃沈した輸送船には沢村栄治が乗船しており、この12月2日雷撃で戦死している。『日本商船隊戦時遭難史』によれば、この日に沈没した輸送船は安芸川丸とはわい丸だけであり、沢村はそのどちらかに乗船していたと見られている。シーデビル (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • セネット (潜水艦)

    セネット (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    7月1日、セネットは4回目の哨戒で日本海に向かった。これより先の6月に実施されたバーニー作戦以降、アメリカ潜水艦にとって日本海は特別な海域ではなくなっていた。7月28日、セネットはの津軽海峡西方沖で萩川丸(川崎汽船、2,995トン)を、秋田県入道崎沖で第十五雲海丸(中村汽船、1,208トン)と柏栄丸(日東汽船、2,864トン)の合計3隻を撃沈。7月30日にもの北海道茂津多岬灯台沖で裕山丸(興国汽船、6,038トン)を撃沈した。セネットはこの哨戒で4隻13,105トンの戦果を挙げ、一哨戒で10,000トン以上の戦果を挙げた最後のアメリカ潜水艦となった。8月9日、セネットは34日間の行動を終えてサイパン島に帰投した。セネット (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • スペードフィッシュ (潜水艦)

    スペードフィッシュ (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    リレー式に対馬海峡を突破した各潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時の攻撃開始を待った。「ハイデマンズ・ヘップキャッツ」は北海道の西部海域から新潟沖に進出し、スペードフィッシュは北海道西岸沖に位置した。6月10日、スペードフィッシュは神威岬沖で第二大源丸(太洋興業、1,999トン)に魚雷2本を命中させて撃沈し、日付が変わる前に間髪置かず第八雲海丸(中村汽船、1,304トン)と神通丸(藤山海運、985トン)も撃沈した。6月12日の夜明け前には礼文島近海でサンパンを20ミリ機銃で沈め、間を置かず現れた3隻のトロール船を砲撃で沈めた。6月13日、スペードフィッシュは失態を犯した。の礼文島と宗谷海峡の間で日本船と間違えて、当時は中立のソ連船トランスバルト (Transbalt) を誤認撃沈。ジルマーショーゼン艦長は攻撃してすぐに相手がソ連船である事を悟り。この一件は日本側でも報じられた。6月14日にはの樺太真岡町沖に出現し、真岡港沖で仮泊中の青山丸(川崎汽船、2,018トン)に魚雷を2本命中させて撃沈。6月17日の夜にはの地点で特設敷設艦永城丸(東亜海運、2,274トン)を撃沈した。スペードフィッシュはシードッグ、クレヴァルと再会したあと、6月24日夜に宗谷海峡西側に到着。6月19日に討ち取られたボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) 以外の各潜水艦は翌25日正午に濃霧の中を二列縦陣、浮上航行で海峡を通過し、オホーツク海に入った。7月4日、スペードフィッシュは39日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。スペードフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • シードラゴン (潜水艦)

    シードラゴン (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    10月21日夜から10月22日朝にかけては、第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の攻撃で追い立てられたと考えられた日本艦隊を捜し求めたところ、22日未明にの地点で隼鷹型空母と思しき艦艇と4隻の大型艦、および3隻ないし4隻の駆逐艦からなる機動部隊を発見して攻撃し、隼鷹型空母を撃破したことを報告した。10月24日朝6時15分、シャークが敵との接触を報告してきたので、シードラゴンはその情報に基づいて移動した。7時30分に潜望鏡で目標を発見したが、距離が遠かった。9時20分、シードラゴンは護衛艦と航空機に護衛された3隻の商船を発見。これはマニラを10月20日に出航し高雄に向かっていたマタ30船団で、指揮艦である駆逐艦春風の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた。10月23日17時30分のソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) による元特設水上機母艦君川丸(川崎汽船、6,863トン)撃沈によって攻撃が開始され、ソーフィッシュ、ドラム (USS Drum, SS-228) 、アイスフィッシュ (USS Icefish, SS-367) のウルフパックと、合流してきたスヌーク (USS Snook, SS-279) によって船団は深刻な状況に陥っていた。10時55分、シードラゴンはこの時点での船団の一番船になっていた海軍徴傭船大天丸(大阪商船、4,642トン)に対して魚雷を4本発射。大天丸は空船で船体が浮かび上がって5ノットしか出せなかったが、最初の魚雷2本は何とか回避。しかし、1本が船倉部分に命中。大天丸は12時ごろに船尾を下にして沈没した。シードラゴン (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • シャーク (SS-314)

    シャーク (SS-314)から見た川崎汽船川崎汽船

    5月16日、シャークは最初の哨戒でピンタド (USS Pintado, SS-387) 、パイロットフィッシュ (USS Pilotfish, SS-386) と共にウルフパックを構成し、マリアナ諸島方面に向かった。6月2日の早朝にシャークは敵船団と遭遇した。この船団はサイパンから横須賀に向かっていた4530船団であり、8隻の各種貨物船と駆逐艦旗風以下の護衛艦艇で構成されていた。シャークはパハロス島西方海域でタンカーに対して魚雷を発射する。魚雷はタンカーを外れ、別の貨物船千代丸(栃木汽船、4,700トン)に命中、これを撃沈する。シャークは爆雷による反撃を回避し、哨戒を継続した。2日後の6月4日、シャークは厳重に護衛された別の船団、第3530船団を追跡する。攻撃位置へ移動したシャークの前方に駆逐艦が接近した。攻撃位置への移動に失敗したシャークは敵艦の左舷180ヤードを通過し、物資を満載した貨物船に対して15時29分ごろに4本の魚雷を発射した。この攻撃で勝川丸(川崎汽船、6,886トン)を撃沈し、護衛艦からの攻撃を回避した後シャークは浮上して追跡を継続した。6月5日午後、船団に追いつき16時45分に6発の魚雷を発射、貨客船高岡丸(日本郵船、7,006トン)は初弾を交わしたものの3本が命中し沈没、貨物船たまひめ丸(浜根汽船、3,080トン)も高岡丸被雷とほぼ同時刻に被雷し沈没した。シャークは護衛艦の攻撃を再び回避し、真夜中近くに浮上したが船団に追いつくことはできなかった。6月17日、シャークは32日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。シャーク (SS-314) フレッシュアイペディアより)

  • 企業間組織

    企業間組織から見た川崎汽船川崎汽船

    川崎睦会 - 旧川崎財閥御三家(川崎重工・川崎製鉄・川崎汽船)と川鉄商事の4社で構成される組織企業間組織 フレッシュアイペディアより)

  • 名古屋丸

    名古屋丸から見た川崎汽船川崎汽船

    1920年(大正9年)、石原広一郎によって南洋鉱業が設立される。後に石原産業となるこの会社は、マレー半島やオランダ領東インド(蘭印)地域からの鉄鉱石輸入事業を行っていたが、当初は傭船により日本へと運搬していた。1929年(昭和4年)に社名を石原産業海運と改め、海運業を開始することとなった。川崎汽船や国際汽船などから貨物船を購入して、往航時の空船状態を利用し日本から蘭印への貨物輸送を行う。また、昭和金融恐慌で休業に陥った台湾銀行から経営を委嘱された倉庫業も手がける。2年後の1931年(昭和6年)3月16日からは定期航路事業に参入し、本格的な貨客船2隻の建造を計画する。こうして建造されたのが「名古屋丸」と「淨寶縷丸」である。「名古屋丸」は1932年(昭和7年)8月5日に三菱重工業長崎造船所で竣工し、ただちに蘭印航路に就航した。名古屋丸 フレッシュアイペディアより)

  • 粟田丸 (特設巡洋艦)

    粟田丸 (特設巡洋艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    昭和16年8月16日、「粟田丸」は日本海軍に徴傭され、次いで9月5日付で特設巡洋艦として入籍、呉鎮守府籍となる。8月23日から10月5日まで三菱神戸造船所で特設巡洋艦としての艤装工事を受けた。就役後は第二十二戦隊(堀内茂礼少将)に編入され、特設監視艇隊の母艦的存在として釧路および横須賀を根拠地として行動する。1942年(昭和17年)4月18日早朝、「粟田丸」は第二監視艇隊の支援で隊の西方に位置していた。このとき、特設監視艇「第二十三日東丸」(日東漁業、90トン)がアメリカ第16任務部隊と第18任務部隊を発見して打電したが、間もなく軽巡洋艦「ナッシュビル」 (USS Nashville, CL-43) の砲撃で沈没。「粟田丸」は「第二十三日東丸」のちょうど西方におり、「第二十三日東丸」沈没から間を置かず最初の空襲を受けたが、被害はなかった。午後に入って再び空襲を受け、至近弾1発を受けて小破した。6月にはキスカ島攻略作戦に従事。1943年(昭和18年)に入ると、キスカ島への輸送作戦に参加する。3月には特設水上機母艦「君川丸」(川崎汽船、6,863トン)などとともにアッツ島への輸送任務にもつき、3月10日にアッツ島に到着して任務を成功させた。7月のキスカ島撤退作戦には応急収容隊として参加。このように、開戦以降の「粟田丸」はもっぱら北方海域の警戒にあたって他の海域で行動することはなかった。粟田丸 (特設巡洋艦) フレッシュアイペディアより)

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