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  • シーデビル (潜水艦)

    シーデビル (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    3時20分、シーデビルは船団との距離がおよそ3,000メートルに達し、レーダーは11個以上の目標を明確に探知。天候はやや不利だったものの、シーデビルは攻撃態勢に入った。3時22分、シーデビルは自艦の100メートル以内に浮遊機雷があるのを発見しこれをかわした。シーデビルは波で大きく揺らされたものの、10分後には船団の側面に位置して潜航した。月没は4時ごろであり、潜望鏡で観測するには条件が悪くなった。4時13分には護衛艦を確認したが、気付かれなかった。4時14分、シーデビルはマーク18型魚雷4本を中型貨物船に向けて発射したものの、命中しなかった。4時24分には、5番発射管と6番発射管の魚雷を大型貨物船に向けて発射。40秒後魚雷は輸送船はわい丸(南洋海運、9,467トン)に命中し、はわい丸は大爆発を起こして40秒で沈没していった。4時25分、シーデビルは船団の真ん中に位置し、4時28分に護衛艦がシーデビルの至近を通過。4時29分、シーデビルは距離1,200メートルにある大型貨物船に対して、艦尾発射管から4本の魚雷を発射。潜望鏡を廻してみると、わずか140メートルのところに、魚雷を向けた貨物船より大型の貨物船がいるのを発見。この貨物船はシーデビルの方に突進してきてるようであった。4時30分、魚雷は安芸川丸(川崎汽船、6,895トン)に命中。何度も続いた物凄い爆発と衝撃はシーデビルでも感じられ、その様子から相手には弾薬が満載されていたのだろうと判断された。シーデビルは攻撃後、150メートルの海底でじっとした。はっきりと確認できただけで12発の爆雷が投下されたが、シーデビルの近くには落ちてこなかった。やがて、爆雷攻撃の音は遠ざかっていった。ミ29船団は、シーデビルによる安芸川丸とはわい丸の撃沈で支離滅裂となり、奄美大島や台湾各地に個別に逃げ込む輸送船が続出した。このとき撃沈した輸送船には沢村栄治が乗船しており、この12月2日雷撃で戦死している。『日本商船隊戦時遭難史』によれば、この日に沈没した輸送船は安芸川丸とはわい丸だけであり、沢村はそのどちらかに乗船していたと見られている。シーデビル (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 自動車運搬船

    自動車運搬船から見た川崎汽船川崎汽船

    日本では一部でLo-Lo方式の一般貨物船での自動車輸送が行われていたが積載台数が少なく非効率だったため陸上輸送が主だったが、自動車の生産増加と都市の交通事情の悪化や地方道路整備の進まないことから遠隔地への自動車の陸上輸送が困難となったのを受け、1962年に大同海運により世界で初めてRO-RO方式を採用した沿海自動車専用船「東朝丸」を建造。その後自動車輸出の増加に伴い、対米輸出に力を入れていた日産自動車が1965年に大阪商船三井船舶と共同で海外の自動車運搬船を研究し、日本-アメリカ合衆国航路用にRO-RO方式を取り入れた外航自動車兼ばら積み船「追浜丸(おっぱままる)」を建造。乗用車換算で1,200台積みの積載能力を誇った。その後も日産自動車は、「追浜丸」と同型の「座間丸」などを建造。トヨタ自動車も1968年に「第一とよた丸」(川崎汽船運航)を建造して自動車運搬船の利用に踏み切った。自動車運搬船 フレッシュアイペディアより)

  • 秋雲 (駆逐艦)

    秋雲 (駆逐艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    4月1日、第10駆逐隊(秋雲、風雲)、重巡洋艦2隻(利根、筑摩)とともに航空基地物件輸送のため昭南(シンガポール)を出撃してダバオに向かうが、途中で輸送任務が中止となったため昭南に引き返した。3隻(利根、筑摩、風雲)とはここで別れ、別途物件輸送のため4月5日に昭南を出撃して再度ダバオに向かう。4月9日にダバオに到着して燃料や航空魚雷などを陸揚げした後、翌4月10日にダバオを出撃してリンガ泊地に向かった。しかしその道中でバリクパパンからダバオに単独向かう途中の特設運送船聖川丸(川崎汽船、6,862トン)と会合し、ダバオからサンボアンガまで護衛するよう命じられる。スールー海から引き返し、訓練と警戒を行いつつバシラン海峡を東航してダバオに向かった。一方その頃、アメリカ軍の潜水艦レッドフィン(USS Redfin, SS-272) がバリサン海峡東方で哨戒を行っていた。4月11日夕刻、レッドフィンは約10,000ヤードの距離でマストを発見、引き続き観測すると目標(秋雲)は吹雪型駆逐艦と目されジグザグ航行を行っており、18ノットの速力で航行していると推定された。レッドフィンは艦尾発射管で攻撃を行う事とし、18時15分、艦尾発射管から4本の魚雷を発射した。間もなくレッドフィンが発射した最初の魚雷は「秋雲」の一番砲塔付近に命中し、続いて二番目の魚雷はメインマスト付近に命中した。三番目の魚雷も命中したが、四番目の魚雷は外れたと考えられた。秋雲側では4本が命中したと判断された。魚雷の命中を受けて船体は45度に傾き、艦尾は海中に没していた。秋雲駆逐艦長入戸野篶生少佐は「総員退艦」を令した後、艦橋予備室に入って戸を閉め艦と運命をともにした。18時17分、のサンボアンガ灯台の112度26.7海里地点において沈没した。この光景は付近を航行中の漁船が目撃しており、漁船からの通報を受けた「第35号駆潜艇」が救助にあたって生存者救助を行ったが、乗員のうち入戸野艦長以下133名が戦死し、准士官以上8名と下士官兵108名の計116名が生還した。第十駆逐隊は2隻(風雲、朝雲)に減少した。秋雲 (駆逐艦) フレッシュアイペディアより)

  • 畿内丸

    畿内丸から見た川崎汽船川崎汽船

    5月8日早朝、畿内丸は横須賀に向かう第4508船団に加入してトラックを出港した。この第4508船団には、畿内丸の他に特設水上機母艦國川丸(川崎汽船、6,863トン)、陸軍特殊船摩耶山丸(三井船舶、9,433トン)および特設給兵船辰武丸(辰馬汽船、7,068トン)が加入しており、水雷艇「鵯」が護衛していた。他の加入船も新鋭船や優秀船であったが、唯一のネックは辰武丸がラバウルで低質の石炭を搭載したがために、最高速力が9ノットしか出なくなっていたことだった。速力が遅いと潜水艦に狙われやすくなるため、辰武丸を船団から除外するか、二手に分かれて國川丸および摩耶山丸を先行させるべきと意見具申したものの、いずれの案も却下された。こういった不安を抱えたままトラック北水道を通過して横須賀に向かうも、第4508船団はトラック出港直後からアメリカのポーパス級潜水艦プランジャー (USS Plunger, SS-179) の追跡を受け続けることとなった。翌9日未明2時11分頃、國川丸にプランジャーからの魚雷が2本命中するも、いずれも不発であった。午後に入って再びプランジャーからの魚雷を受け、國川丸の船底に魚雷が1本命中したものの、またもや不発だった。第4508船団は偽航路など策を弄して北上を続けるが、次第に速力に優る國川丸および摩耶山丸と、低速の辰武丸およびそれに付き添う畿内丸は離れてゆく。5月10日4時ごろ、の地点でプランジャーからの魚雷が命中し、航行不能となった。救援のため辰武丸が接近するも、約3時間半後にプランジャーからの魚雷が戦隊後部に命中して轟沈した。正午過ぎに再び雷撃され、船橋前部には亀裂が走って沈没の危機が増した。ここに至って國川丸および摩耶山丸は先行して横須賀へ向かい、鵯が護衛のため残留することとなった。5月11日朝、プランジャーは浮上して3インチ砲と20ミリ機銃を撃ち込んで止めを刺し、火災が発生した畿内丸は8時27分に沈没していった。畿内丸の沈没を確認したプランジャーは第4508船団への複数回の攻撃で魚雷を使い切ったため、哨戒を終了してミッドウェー島に針路を向けた。畿内丸は7月15日に除籍され、7月20日に解傭された。畿内丸 フレッシュアイペディアより)

  • 極東丸

    極東丸から見た川崎汽船川崎汽船

    8月10日、ヒ71船団は伊万里湾を出港し、馬公を経由して南方に向かう。ヒ71船団はルソン島沿岸を航行中の8月19日深夜から8月20日未明にかけて、アメリカ潜水艦「ラッシャー」 (USS Rasher, SS-269) 、「ブルーフィッシュ」 (USS Bluefish, SS-222) および「スペードフィッシュ」 (USS Spadefish, SS-411) からなるウルフパックの猛攻により、「速吸」や空母「大鷹」などが沈没または被雷するなど多大な損害を出したが、「旭東丸」は一連の猛攻をもかわした。8月21日にマニラに入港後、8月25日に出港して航海を再開し、9月1日に昭南に到着した。その9月1日、缶用重油をマニラに輸送するよう命じられ、特務艦「神威」、特設運送船(給油)「興川丸」(川崎汽船、10,043トン)と船団を構成し、駆逐艦「皐月」と駆潜艇2隻の護衛を得てマニラに向かうこととなった。船団は潜水艦と空襲を警戒して休み休みに北上し、9月20日にマニラに到着した。9月21日朝、「旭東丸」はマニラ港の指定錨地に停泊していた。9時ごろ、アメリカ第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機がマニラを空襲。「旭東丸」はただちに抜錨して脱出を図り、直撃弾や魚雷命中はなかったものの、多数の至近弾により浸水して船体の傾斜は約25度から30度となり、13時までには船体中央部付近までが水没した。その後、応急修理と浮揚作業に着手したものの、10月18日と19日、11月13日、14日および19日に更なる空襲を受け、ついに放棄された。1945年(昭和20年)3月10日付で除籍および解傭。極東丸 フレッシュアイペディアより)

  • 知床 (給油艦)

    知床 (給油艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    9月11日、6113船団に加入してクェゼリンを出港するが、9月12日未明にの地点でアメリカ潜水艦パーミット (USS Permit, SS-178) の雷撃を受ける。パーミットは6113船団の出航直後から追跡をしていた。雷撃により航行不能となり、クェゼリン在泊中の軽巡洋艦「那珂」や特設砲艦「香取丸」(日之出汽船、1,923トン)などが救援隊として送り込まれる。曳航作業の準備中にパーミットからの二度の攻撃を受けるが被害なく、9月13日15時、「香取丸」により曳航が開始され、北回りのリートにより9月15日13時にルオットに到着した。応急修理の上、輸送船「桃川丸」(川崎汽船、3,829トン)に曳航されルオットを出港し、日本本土までおおよそ4,300キロの航海を行う。その途中の11月13日朝、のパガン島近海で、アメリカ潜水艦スコーピオン (USS Scorpion, SS-278) に発見される。スコーピオンは魚雷を4本発射して1本を命中させるが、小破に留まり航海に影響はなかった。以後、三度にわたって潜水艦との接触および攻撃に遭遇するが被害なく、11月25日に佐世保に帰投。佐世保海軍工廠と三菱長崎造船所で修理が行われた。知床 (給油艦) フレッシュアイペディアより)

  • ジャック (潜水艦)

    ジャック (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    6月4日、ジャックは5回目の哨戒で南シナ海に向かった。ジャックはルソン島沿岸部に向かい、6月25日早朝、の地点でマニラから出てきたマタ23船団を発見した。ジャックは船団の左側から魚雷を6本発射し、タンカーさんぺどろ丸(三菱汽船、7,268トン)の左舷に魚雷が1本命中、大火災を発したさんぺどろ丸は、一晩燃えて沈没していった。6月30日未明にはのマニラ湾西方180キロ地点で、折からの悪天候の中をサイゴンからマニラに向けて米を輸送していたサマ08船団を発見。3時12分に、ジャックはサマ08船団に対し魚雷を計10本発射。魚雷は陸軍輸送船鶴島丸(山下汽船、4,652トン)に3本が命中し撃沈。1時間後の4時22分には魚雷を4本発射し、陸軍輸送船松川丸(川崎汽船、3,832トン)に全て命中して撃沈。さらに艦尾発射管から魚雷を4本発射し、3つの爆発を確認した。7月14日、ジャックは39日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。ジャックのここまでの戦績に対して殊勲部隊章が授与された。ジャック (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 有森新吉

    有森新吉から見た川崎汽船川崎汽船

    1921年(大正10年)から1925年(大正14年)まで山陽新報社社長を務め、1927年(昭和2年)には川崎汽船株式会社取締役に就任した。有森新吉 フレッシュアイペディアより)

  • ハンブルク港

    ハンブルク港から見た川崎汽船川崎汽船

    オペレーター:HHLA、岸壁長さ:995m、面積(バース数):40ha(4)、水深:15.2m、年間取扱容量(計画):95万TEU(200万TEU)、使用会社:K Line, MSC, Yang Mingハンブルク港 フレッシュアイペディアより)

  • 株式会社 (日本)

    株式会社 (日本)から見た川崎汽船川崎汽船

    川崎汽船株式会社 Kawasaki Kisen Kaisha, Limited株式会社 (日本) フレッシュアイペディアより)

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