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  • 南号作戦

    南号作戦から見た川崎汽船川崎汽船

    加入輸送船は2隻で、延長丸(日本郵船:6,888総トン)には重油7,000t、錫、生ゴムを積載していた。1月31日にシンガポールを出航。船団は2月8日、キノン湾に仮泊。2月11日に海南島楡林に到着する。同地で聖川丸(川崎汽船:6862総トン)を加入し、2月12日に空襲を受け、聖川丸が至近弾により損傷した。同日後水湾に仮泊、2月14日に舟山列島沖合で聖川丸が分離した。2月16日に金門湾、2月17日に南日島にそれぞれ仮泊。2月21日に揚子江沖で延長丸、三宅、第20号掃海艇が分離し、上海に回航する。船団は2月27日に門司に到着した。延長丸、三宅、第20号掃海艇は21日に上海に到着。重油3,500tを陸揚げして出航し、3月2日に門司に到着した。南号作戦 フレッシュアイペディアより)

  • 襟裳 (給油艦)

    襟裳 (給油艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    3月1日にアナンバス諸島を出撃し、ジャワ海に進出して第六駆逐隊に対する燃料補給を行った後、昭南(シンガポール)に回航するよう命じられる。3月3日に駆逐艦「長月」と「水無月」に対して燃料補給を行ったのに続き、3月4日にも「松風」に対して燃料補給を行った後昭南に向かったが、の地点でアメリカ潜水艦S-39 (USS S-39, SS-144) の雷撃を受ける。S-39 は目標を「厳島丸」(日本水産、10,006トン)あるいは「建川丸」(川崎汽船、10,090トン)と推定して魚雷を4本発射し、うち3本が命中して爆発するのを確認した。15時5分にビリトン島近海で沈没し、「松風」と軽巡洋艦「由良」によって特務艦長相馬信四郎大佐以下162名が救助されたが、18名が戦死した。襟裳 (給油艦) フレッシュアイペディアより)

  • 洲埼 (軽質油運搬艦)

    洲埼 (軽質油運搬艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    「洲崎」は3月にバリクパパンへ進出後、特設運送船(給油)「国洋丸」(国洋汽船、10,026トン)および「玄洋丸」(浅野物産、10,018トン)と船団を構成し、4月17日にバリクパパンを出港してパラオに向かう。当初の計画ではパラオで「国洋丸」および「玄洋丸」と分離し、特設運送船(給油)「雄鳳丸」(飯野海運、5,135トン)と改めて船団を編成してサイパン島に回航されるはずであった。しかし、ニューギニア北部沿岸にアメリカ第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)が遊弋しているとの報を受けて、船団はパラオを回避して「雄鳳丸」を含んだ全船がサイパン島に向かうこととなり、4月26日にサイパン島に到着した。サイパン島で燃料陸揚げの後、4月29日にサイパン島を出港してバリクパパンに向かい、5月7日に到着。以後はバリクパパンと、第一機動艦隊(小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)が進出していたタウィタウィ、あるいはパラオとの間で燃料補給に従事。「あ号作戦」発動後、「洲崎」は特設運送船(給油)「興川丸」(川崎汽船、10,043トン)とともに第三補給部隊を編成した。マリアナ沖海戦の後、7月18日に南西方面艦隊付属となった。洲埼 (軽質油運搬艦) フレッシュアイペディアより)

  • 足摺 (軽質油運搬艦)

    足摺 (軽質油運搬艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    足摺の竣工後の行動は断片的にしか判明していないが、まず4月10日に佐伯を出港して横浜に向かっている。6月15日には、特務艦の洲崎、陸軍タンカーの黒潮丸(中外海運、10,518トン)、タンカーのあまつ丸(石原汽船、10,567トン)とともに船団を構成して佐世保を出港して南方へ向かう。時はヒ船団開設前夜、まず敷設艇の平島の護衛で高雄に向かい、高雄ではあまつ丸と別れ、また護衛艦が平島から駆逐艦若竹に代わり、Z船団を名乗って6月21日に高雄を出港。サンジャックを経由し、6月28日に昭南(シンガポール)に到着した。9月22日には、サ12船団に加入して門司に向かう。船団は9月25日にアメリカの潜水艦ボーフィン(USS Bowfin, SS-287) の雷撃で特設運送船の(給油・応急タンカー)霧島丸(国際汽船、8,267トン)が沈没。足摺および中型タンカーの誠心丸に対しても魚雷が発射されたが回避した。11月10日にはサ17船団に加入して昭南との間を往復。1944年(昭和19年)に入り、1月6日に特務艦の塩屋、特設運送船(給油)の興川丸(川崎汽船、10,043トン)とともに臨時M船団を編成し、第36号哨戒艇の護衛を得て高雄を出港。マニラまではヒ29船団と同行し、1月9日にマニラに到着後分離してタラカン島経由、1月15日にバリクパパンに到着した。以後、バリクパパンとダバオ、サイパン島間の軽質油輸送などに従事。4月29日から5月1日にかけては、第30号掃海艇の護衛を得てタラカン島からバリクパパンへ航行。6月1日時点ではヤップ島に在った。足摺 (軽質油運搬艦) フレッシュアイペディアより)

  • ラエ・サラモアへの空襲

    ラエ・サラモアへの空襲から見た川崎汽船川崎汽船

    第六水雷戦隊のうち、旗艦「夕張」は作戦支援、第二十九駆逐隊(「追風」、「朝凪」、「夕凪」)は陸軍輸送船「横浜丸」(日本郵船、6,143トン)および「ちゃいな丸」(川崎汽船、5,869トン)を護衛してサラモアへ、第三十駆逐隊のうち「睦月」と「弥生」は「津軽」艦長稲垣義龝大佐指揮の下で特設巡洋艦「金剛丸」(国際汽船、8,624トン)、特設敷設艦「天洋丸」(東洋汽船、6,843トン)および特設運送船「黄海丸」(嶋谷汽船、3,871トン)を護衛してラエに向かうこととなり、「望月」は特設水上機母艦「聖川丸」(川崎汽船、6,862トン)の護衛に回った。「金剛丸」と「天洋丸」は、ラバウル警備隊から抽出された陸戦部隊560名と高射砲隊、ラエに配備される基地員800名や需品の輸送にもあたった。なお、当初は攻略部隊に名を連ねていた特設巡洋艦「金龍丸」(国際汽船、9,309 トン)は、スルミ攻略戦で損傷したためラバウル待機となった。「横浜丸」と「ちゃいな丸」に乗船する陸軍部隊は、南海支隊のうち堀江正陸軍少佐指揮の歩兵一個大隊、山砲一個中隊を主軸とした約2,000名で構成されていた。ラエ・サラモアへの空襲 フレッシュアイペディアより)

  • スペードフィッシュ (潜水艦)

    スペードフィッシュ (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    リレー式に対馬海峡を突破した各潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時の攻撃開始を待った。「ハイデマンズ・ヘップキャッツ」は北海道の西部海域から新潟沖に進出し、スペードフィッシュは北海道西岸沖に位置した。6月10日、スペードフィッシュは神威岬沖で第二大源丸(太洋興業、1,999トン)に魚雷2本を命中させて撃沈し、日付が変わる前に間髪容れず第八雲海丸(中村汽船、1,304トン)と神通丸(藤山海運、985トン)も撃沈した。6月12日の夜明け前には礼文島近海でサンパンを20ミリ機銃で沈め、間を置かず現れた3隻のトロール船を砲撃で沈めた。6月13日、スペードフィッシュは失態を犯した。の礼文島と宗谷海峡の間で日本船と間違えて、当時は中立のソ連船トランスバルト (Transbalt) を誤認撃沈。ジルマーショーゼン艦長は攻撃してすぐに相手がソ連船である事を悟り。この一件は日本側でも報じられた。6月14日にはの樺太真岡町沖に出現し、真岡港沖で仮泊中の青山丸(川崎汽船、2,018トン)に魚雷を2本命中させて撃沈。6月17日の夜にはの地点で特設敷設艦永城丸(東亜海運、2,274トン)を撃沈した。スペードフィッシュはシードッグ、クレヴァルと再会したあと、6月24日夜に宗谷海峡西側に到着。6月19日に討ち取られたボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) 以外の各潜水艦は翌25日正午に濃霧の中を二列縦陣、浮上航行で海峡を通過し、オホーツク海に入った。7月4日、スペードフィッシュは39日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。スペードフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 吉原昌宏

    吉原昌宏から見た川崎汽船川崎汽船

    19??年 早稲田大学卒業後、川崎汽船に入社。吉原昌宏 フレッシュアイペディアより)

  • グランパス (SS-207)

    グランパス (SS-207)から見た川崎汽船川崎汽船

    2月8日、グランパスは最初の哨戒でマーシャル諸島方面に向かった。2月17日にウォッジェ環礁を、2月18日にクェゼリン環礁をそれぞれ偵察。クェゼリン環礁に敷設艦常磐や大型商船、大型潜水艦が在泊していることを確認した。2月27日深夜にはの地点で、ウォレアイ環礁からクェゼリン環礁に向かっていた海軍徴傭船龍田丸(日本郵船、16,975トン)を発見し、水上攻撃にて魚雷を3本発射しようとしたが、方位盤のミスにより魚雷が発射できず攻撃に失敗した。3月1日夕刻には建川丸(川崎汽船、10,091トン)級タンカーに対して魚雷を3本発射するも命中せず、3月2日にも警備艇に対して魚雷を1本発射したが、これも命中しなかった。3月3日には商船に対して魚雷を4本発射したが、3日連続でまたもや命中しなかった。3月5日、グランパスはの地点で特設運送船(給油)第二号海城丸(日東汽船、8,636トン)を撃沈した。3月23日にクェゼリン環礁を、3月27日にウォッジェ環礁を再び偵察した。4月4日、グランパスは48日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。グランパス (SS-207) フレッシュアイペディアより)

  • 奥村邦夫

    奥村邦夫から見た川崎汽船川崎汽船

    奥村 邦夫(おくむら くにお)は東京都出身。1978年川崎汽船株式会社入社。バンコック駐在員、東京大井トラフィックセンター長等を歴任。東京外国語大学社会・国際貢献情報センターセンター員。奥村邦夫 フレッシュアイペディアより)

  • 訃報 2010年2月

    訃報 2010年2月から見た川崎汽船川崎汽船

    2月20日 - 熊谷清、日本の実業家、川崎汽船元社長(* 1918年)訃報 2010年2月 フレッシュアイペディアより)

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