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  • 久邇邦昭

    久邇邦昭から見た川崎汽船川崎汽船

    戦後はGHQの臣籍降下令により皇籍を離れる。1951年3月、学習院大学政治経済学部卒業後、川崎汽船に勤務し取締役を務めた。同社退職後は伊勢神宮の大宮司となり(1990年 - 2001年)、その後神社本庁統理を務めた(2001年 - 2011年)。前霞会館理事長(1991年 - 2007年)。日本会議の顧問も務める。久邇邦昭 フレッシュアイペディアより)

  • 建川丸

    建川丸から見た川崎汽船川崎汽船

    1のうち、かつて川崎汽船が所有し、運航したタンカー。いわゆる「川崎型油槽船」の一隻。太平洋戦争では海軍徴傭船、特設運送船として活動した。本項で記述。建川丸 フレッシュアイペディアより)

  • ソーフィッシュ (潜水艦)

    ソーフィッシュ (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    10月23日午後、の地点にいたソーフィッシュは、おりからの悪天候の中を航行中のマタ30船団からの煙を発見。マタ30船団は船団旗艦駆逐艦春風の名前を取って「春風船団」とも言われた。艦尾発射管の魚雷を撃ち尽くして艦首発射管の魚雷しか攻撃の手立てがなかったソーフィッシュは17時24分、の地点で魚雷を5本発射。魚雷は船団最後尾を航行中の特設運送船君川丸(川崎汽船、6,863トン)の船尾を中心に命中し、君川丸はあっけなく沈没していった。マタ30船団に対する攻撃では、ソーフィッシュ以下のウルフパックの他に、シャーク (USS Shark, SS-314) 、シードラゴン (USS Seadragon, SS-194) 、ブラックフィッシュ (USS Blackfish, SS-221) からなる別のウルフパックと、それとは別の行動をとっていたスヌーク (USS Snook, SS-279) が合流してきており、君川丸を含め合計9隻の輸送船を撃沈する戦果を挙げたが、シャークが10月24日朝に春風の反撃を受けて撃沈されており、100パーセントの完勝劇とは行かなかった。ソーフィッシュは深夜23時21分に魚雷を4本発射し、この魚雷は極東丸型1万トン級タンカーに1本が命中して撃沈したと判断され、明け方に戦場を離れた。11月8日、ソーフィッシュは58日間の行動を終えてマジュロに帰投。艦長がダグラス・H・プーグ少佐(アナポリス1938年組)に代わった。ソーフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • ジャパンライン

    ジャパンラインから見た川崎汽船川崎汽船

    この法律によって日本国内に約150社あった外航海運会社のうち、95社がこの法律に基づく海運集約に参加した。同法が発効した1964年4月には、日本郵船(旧日本郵船と三菱海運が合併)、大阪商船三井船舶(大阪商船と三井船舶が合併)、川崎汽船(旧川崎汽船と飯野汽船が合併)、ジャパンライン(日東商船と大同海運が合併)、山下新日本汽船(山下汽船と新日本汽船が合併)、昭和海運(日産汽船と日本油槽船が合併)が合併会社として新発足し、業界は6つのグループに集約された。ジャパンライン フレッシュアイペディアより)

  • 金剛丸 (特設巡洋艦)

    金剛丸 (特設巡洋艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    1919年(大正8年)7月、川崎造船所で建造中のストックボートや、委託された造船所所有船などを船隊の主力とし、遠洋航路経営のために川崎造船所や鈴木商店などが出資した国際汽船が創立された。2年後の1921年(大正10年)には、同じような目的で設立された川崎汽船や川崎造船所船舶部と航路の共同運営を開始。「Kライン」の始まりとなる。しかし、不況により収入が上がらず、減資を行ったものの改善しなかったため、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌をきっかけに銀行の管理下に入ることとなって「Kライン」から離脱した。その後、さらなる減資や利息の支払猶予などの救済策、低性能船の整理などを行った結果、経営状況は改善。また、政府による船舶改善助成施設などを活用した大幅な船質改善を行い、国際汽船の船隊は優秀船を主体とする船隊に変貌した。金剛丸 (特設巡洋艦) フレッシュアイペディアより)

  • 有馬山丸

    有馬山丸から見た川崎汽船川崎汽船

    三井船舶唯一の残存優秀船であった「有馬山丸」は、戦後初期の遠洋航海の主力として活躍した。GHQの日本商船管理局(:en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-A016の管理番号を与えられた「有馬山丸」は、復員兵・引揚者輸送のため南方各地へ赴いた。例えば、1946年(昭和21年)7月-10月の第6次航海ではシンガポール経由でラングーンへ往復している。船舶運営会による統制下でタイ産米の輸入にも従事したが、横浜帰港時の1949年(昭和24年)4月25日に座礁事故を起こした。1950年(昭和25年)10月には、朝鮮戦争の影響でフィリピン産の砂糖輸送のためニューヨークへの不定期航路に配船され、戦後の日本船として初めてのニューヨーク入港を果たしている。その後、川崎汽船の「聖川丸」による北米不定期航路再開(1950年8月)の実績をふまえニューヨーク定期航路再開の申請がなされ、1951年(昭和26年)6月に「有馬山丸」による月1便の待望のニューヨーク定期航路再開が実現した。有馬山丸 フレッシュアイペディアより)

  • 極東丸

    極東丸から見た川崎汽船川崎汽船

    8月10日、ヒ71船団は伊万里湾を出港し、馬公を経由して南方に向かう。ヒ71船団はルソン島沿岸を航行中の8月19日深夜から8月20日未明にかけて、アメリカ潜水艦「ラッシャー」 (USS Rasher, SS-269) 、「ブルーフィッシュ」 (USS Bluefish, SS-222) および「スペードフィッシュ」 (USS Spadefish, SS-411) からなるウルフパックの猛攻により、「速吸」や空母「大鷹」などが沈没または被雷するなど多大な損害を出したが、「旭東丸」は一連の猛攻をもかわした。8月21日にマニラに入港後、8月25日に出港して航海を再開し、9月1日に昭南に到着した。その9月1日、缶用重油をマニラに輸送するよう命じられ、特務艦「神威」、特設運送船(給油)「興川丸」(川崎汽船、10,043トン)と船団を構成し、駆逐艦「皐月」と駆潜艇2隻の護衛を得てマニラに向かうこととなった。船団は潜水艦と空襲を警戒して休み休みに北上し、9月20日にマニラに到着した。9月21日朝、「旭東丸」はマニラ港の指定錨地に停泊していた。9時ごろ、アメリカ第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機がマニラを空襲。「旭東丸」はただちに抜錨して脱出を図り、直撃弾や魚雷命中はなかったものの、多数の至近弾により浸水して船体の傾斜は約25度から30度となり、13時までには船体中央部付近までが水没した。その後、応急修理と浮揚作業に着手したものの、10月18日と19日、11月13日、14日および19日に更なる空襲を受け、ついに放棄された。1945年(昭和20年)3月10日付で除籍および解傭。極東丸 フレッシュアイペディアより)

  • クレジット・デフォルト・スワップ

    クレジット・デフォルト・スワップから見た川崎汽船川崎汽船

    600-699??NEC・624(112),川崎汽船・623(116)クレジット・デフォルト・スワップ フレッシュアイペディアより)

  • 護国丸 (特設巡洋艦)

    護国丸 (特設巡洋艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    「護国丸」の特設運送船としての初任務は、マーシャル諸島方面への輸送任務が予定されていた。セメントなどの資材を搭載して12月27日朝に、特設運送船「君川丸」(川崎汽船、6,863トン)とともに由良内を出港して横須賀に向かう。しかし、昼ごろに潮岬沖を東航中、「君川丸」がアメリカ潜水艦「トートグ」(USS Tautog, SS-199) の雷撃を受け、発射された6本の魚雷のうち1本が命中し大破する被害を受けて後落。「護国丸」はそのまま航行を続けたが、深夜になってアメリカ潜水艦「ガーナード」 (USS Gurnard, SS-254) の雷撃を受ける。「ガーナード」は魚雷を4本発射し、うち1本が「護国丸」の一番船倉に命中。「護国丸」はそのまま航行を続け、翌12月28日に横須賀に入港した。「護国丸」は1944年(昭和19年)2月から5月までの間は浅野船渠で修理が行われ、修理を終えたあとは門司に回航された。護国丸 (特設巡洋艦) フレッシュアイペディアより)

  • ハッド (潜水艦)

    ハッド (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    8月8日、ハッドは7回目の哨戒でヘイク (USS Hake, SS-256) 、ハーダー (USS Harder, SS-257) 、レイ (USS Ray, SS-271) とウルフパックを構成し、南シナ海およびルソン島近海に向かった。8月18日昼過ぎ、レイがパラワン島沖でミ12船団を発見し、陸軍タンカー南星丸(拿捕船、元イギリス船プレイドン/日東汽船委託、5,878トン)を撃沈した。レイは以後もミ12船団と接触を続けたが、ミ12船団は8月20日にミンドロ島パルアン湾に入泊。同じ日の夜にハーダーからミンドロ島カラビテ岬沖で会合するという連絡が入った。翌8月21日未明、ハッドはハーダーと会合し、レイとギターロ (USS Guitarro, SS-363) も呼び寄せてあることを教えられる。ミ12船団は朝に航行を再開してマニラに向かった。ウルフパックは、ミ12船団が湾外に出てくるところを見計らって船団を攻め立てた。ハッドは7時30分ごろにの地点で3隻の輸送船に対し魚雷を6本発射し、輸送船のるほうく丸(川崎汽船、6,576トン)の左舷機関室に1本が命中して、輸送船金龍丸(大光商船、4,392トン)にも魚雷が命中。のるほうく丸は急速に沈み、8時過ぎには金龍丸も沈没した。護衛艦は100発以上もの爆雷を投下したものの、ウルフパックにはなんら損害はなかった。攻撃が終わると、ハッドはハーダーとともにマニラ湾に向かった。ハッド (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

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