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  • 来福丸

    来福丸から見た川崎汽船川崎汽船

    竣工した「来福丸」は、ストックボートとして川崎造船所船舶部の持ち船になった。輸出を主眼に大量建造された第一大福丸型であったが、第一次世界大戦の終結もあってさばききれなかった。20隻余りの輸出船を除いた残りの多くは1919年(大正8年)4月に設立の川崎汽船、さらに同年7月に日本政府の援助で設立の国際汽船へと順次現物出資され、「来福丸」も1920年(大正9年)には国際汽船が船主に変わった。受注の積荷が少なく係留状態で過ごすこともしばしばあり、戦時急造型で性能の割に船価の高い第一大福丸型は国際汽船の経営を圧迫した。来福丸 フレッシュアイペディアより)

  • マタ30船団

    マタ30船団から見た川崎汽船川崎汽船

    船団は輸送船を3列縦隊にし、周囲に春風を先頭として護衛艦を配置した隊形を組み、8ノットの低速で航行した。しかし、23日朝から吹き出した強風の影響もあって、阿里山丸など隊列から落伍する船が出た。23日正午ごろ、船団最優秀船で元特設水上機母艦である特設運送船君川丸(川崎汽船、6,863総トン)が潜望鏡らしきものを発見して他の加入船に警戒を呼びかけた。マタ30船団 フレッシュアイペディアより)

  • レッドフィッシュ (潜水艦)

    レッドフィッシュ (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    10月25日、レッドフィッシュは2回目の哨戒で東シナ海に向かった。途中、補給でサイパン島に寄港し11月3日に出航、哨区に到着した。11月20日、レッドフィッシュはの地点で大型のサンパンを発見し、浮上砲戦で撃沈。2日後の11月22日にも、の地点で20トン程度のサンパンを発見、これも浮上砲戦で撃沈した。11月22日22時37分ごろ、レッドフィッシュはの与那国島西方で基隆から那覇に向かっていたタカ206船団を発見し、バング (USS Bang, SS-385) とともに攻撃。レッドフィッシュが鳳山丸(南日本汽船、2,552トン)を、バングが天草丸(大阪商船、2,345トン)と栄丸(川崎汽船、2,878トン)をそれぞれ撃沈した。その後北上し、12月8日夜、レッドフィッシュは長崎県野母崎沖の女島灯台付近で、SJレーダーで日本艦隊らしき目標を探知した。この艦隊は、フィリピンへ緊急物資輸送を実施し、帰途台湾で合流した戦艦榛名、重巡洋艦利根、駆逐艦3隻とともに佐世保に向かっていた航空母艦隼鷹を中心とする艦隊であった。レッドフィッシュは至近の僚艦シーデビル (USS Seadevil, SS-400) などに艦隊の存在を通報するとともに、自身も艦隊を追跡した。艦隊は高速でジグザグコースを取っておりやや雷撃しにくい体勢が続いたが、翌9日1時33分に絶好の射点につき、隼鷹へ向けて魚雷6本を発射した。1時34分、このうちの1本が隼鷹の右舷のやや後部に命中。命中直後こそ隼鷹は航行可能だったが、程なく爆発が起きて航行不能となった。レッドフィッシュは止めを刺そうとし、旋回して艦尾の発射管から魚雷を4本発射。そのうち1本が右舷艦首部に命中した。隼鷹は右舷へ30度傾いたまま微速航行を続け佐世保に帰投。沈没につながる幸い致命的な被害は食い止められたものの、このときの損傷により、隼鷹は終戦まで戦列に復帰することができなかった。攻撃後、レッドフィッシュは再び南に向かった。レッドフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • シードラゴン (潜水艦)

    シードラゴン (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    10月21日夜から10月22日朝にかけては、第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の攻撃で追い立てられたと考えられた日本艦隊を捜し求めたところ、22日未明にの地点で隼鷹型空母と思しき艦艇と4隻の大型艦、および3隻ないし4隻の駆逐艦からなる機動部隊を発見して攻撃し、隼鷹型空母を撃破したことを報告した。10月24日朝6時15分、シャークが敵との接触を報告してきたので、シードラゴンはその情報に基づいて移動した。7時30分に潜望鏡で目標を発見したが、距離が遠かった。9時20分、シードラゴンは護衛艦と航空機に護衛された3隻の商船を発見。これはマニラを10月20日に出航し高雄に向かっていたマタ30船団で、指揮艦である駆逐艦春風の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた。10月23日17時30分のソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) による元特設水上機母艦君川丸(川崎汽船、6,863トン)撃沈によって攻撃が開始され、ソーフィッシュ、ドラム (USS Drum, SS-228)、アイスフィッシュ (USS Icefish, SS-367) のウルフパックと、合流してきたスヌーク (USS Snook, SS-279) によって船団は深刻な状況に陥っていた。10時55分、シードラゴンはこの時点での船団の一番船になっていた海軍徴傭船大天丸(大阪商船、4,642トン)に対して魚雷を4本発射。大天丸は空船で船体が浮かび上がって5ノットしか出せなかったが、最初の魚雷2本は何とか回避。しかし、1本が右舷機関室後部に命中。大天丸は12時ごろに船尾を下にして沈没した。シードラゴン (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • ドラム (潜水艦)

    ドラム (潜水艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    ドラムの最初の哨戒は4月17日、日本近海への航行だった。5月1日23時20分、ドラムは御前崎沖の遠州灘で中型艦船に対して魚雷を2本発射し、1本が命中。続いて駆逐艦と思しき艦艇に対しても魚雷を1本発射したが命中せず、間を置いて魚雷を3本発射したが、これも命中しなかった。この「中型艦船」は水上機母艦瑞穂であり、瑞穂は翌2日4時16分に沈没した。瑞穂の沈没は、第二次世界大戦における日本海軍軍艦の喪失第一号であった。続く5月9日には、の潮岬近海で輸送船西寧丸(大連汽船、4,916トン)に対して魚雷を4本発射し、実際には1本も命中しなかったものの、ドラムは撃沈を報じた。5月13日には、の神子元島70度12海里の地点で、石炭を搭載して秦皇島から川崎に向かっていた輸送船昭南丸(拿捕船/川崎汽船委託、5,356トン)を撃沈。5月25日にも野島崎沖で室蘭に向かっていた輸送船喜多方丸(栗林商船、2,380トン)を撃沈した。5月28日にもの犬吠埼沖で特設巡洋艦粟田丸(日本郵船、7,397トン)に対して魚雷を5本発射したが、全て回避された。帰途にはミッドウェー海戦に参加し、ミッドウェー島のはるか西方で哨戒を行った。6月12日、ドラムは56日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。ドラム (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 響 (吹雪型駆逐艦)

    響 (吹雪型駆逐艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    5月3日、「電」とともにヒ61船団に加入し、六連島沖を出撃。5月9日にマニラに到着後、3隻の特設運送船(給油)、「日栄丸」(日東汽船、10,021トン)と「建川丸」(川崎汽船、10,090トン)、「あづさ丸」(石原汽船、10,022トン)は第一機動艦隊(小沢治三郎中将)への補給任務のためマニラでヒ61船団から分離し、引き続き「電」とともに護衛にあたることとなった。5月11日にマニラを出港してバリクパパンに向かう。3日後の5月14日未明、「電」と艦の位置を交代した直後、のシブツ海峡に差し掛かったところで「電」がアメリカ潜水艦「ボーンフィッシュ」 ('''') の雷撃により沈没し、「電」乗員や1952年(昭和27年)に「アリチアミン」を発見した藤原元典を含む第六駆逐隊関係者合わせて121名を救助。「電」の喪失により、第六駆逐隊は6月10日に解隊した。響 (吹雪型駆逐艦) フレッシュアイペディアより)

  • 帝国船舶

    帝国船舶から見た川崎汽船川崎汽船

    設立には、日本郵船、大阪商船、三井物産(船舶部)、山下汽船、川崎汽船、国際汽船、大同海運、三菱商事(船舶部)および辰馬汽船の大手海運会社9社が参加した。資本金1000万円は各社が均等出資し、役員も各社へ1人ずつ均等に割り当てられ、代表者には国際汽船社長の黒川新次郎が選ばれた。帝国船舶 フレッシュアイペディアより)

  • 建川丸

    建川丸から見た川崎汽船川崎汽船

    1のうち、かつて川崎汽船が所有し、運航したタンカー。いわゆる「川崎型油槽船」の一隻。太平洋戦争では海軍徴傭船、特設運送船として活動した。本項で記述。建川丸 フレッシュアイペディアより)

  • 佐藤勝巳

    佐藤勝巳から見た川崎汽船川崎汽船

    新潟県出身。元日本共産党員。旧制中学を卒業後、新潟県立巻高等学校を中退し、川崎汽船に勤務するが、1950年、労働組合専従だったためにレッドパージを受け失職。在日朝鮮人の帰還事業に参加し、北朝鮮から2度(1962年11月10日、1964年9月23日)にわたり勲章(「朝鮮民主主義人民共和国赤十字栄誉徽章」)を授与される。在日韓国・朝鮮人差別反対運動にもかかわった。佐藤勝巳 フレッシュアイペディアより)

  • 竹 (松型駆逐艦)

    竹 (松型駆逐艦)から見た川崎汽船川崎汽船

    8月30日からは南西方面艦隊(司令長官三川軍一中将・海兵38期)の指揮下に入り、マニラと各地との間で船団護衛に従事した。10月4日、「竹」はミリ行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌5日にミンドロ海峡でアメリカ潜水艦コッド (USS Cod, SS-224) の雷撃により「辰城丸」(辰馬汽船、6,886トン)を失った。10月14日にミリに到着してマニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には高雄行きのマタ30船団の護衛でマニラを出港した。この船団は指揮艦である駆逐艦「春風」の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた。10月23日夕方、マタ30船団はルソン島ボヘヤドール岬北西沖で元特設水上機母艦「君川丸」(川崎汽船、6,863トン)がアメリカ潜水艦ソーフィッシュ (USS Sawfish, SS-276) の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。このうち「阿里山丸」には捕虜1500名が乗船していたが、米潜水艦に撃沈されてしまった。「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め、また遭難者の救助に従事した。「春風」はアメリカ潜水艦シャーク (USS Shark, SS-314) を撃沈して一矢報いた。「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船曳航の命令があり、救助活動を打ち切って捜索したものの輸送船を発見できず、単艦で高雄へ向ったとしている。竹 (松型駆逐艦) フレッシュアイペディアより)

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