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朝庭から見た平城宮
朝庭に常置されていた版位とは、朝政の際、官司(官庁および官人組織)内での日常的な執務や官司相互の連絡などにあたって、朝堂内の朝座に着座している他の官人に対して報告したり、上司にあたる官の指示や命令を受けたりするさい、官人たちが立ち定まるべき位置を示すために設けられたものであった。平安宮(大内裏)の場合、朝堂は12堂あったが、『延喜式』(927年(延長5年)完成、967年(康保4年)施行)によれば、親王たちの朝座のある延休堂をのぞく他の11堂の前や後ろに、それぞれの官司ごとに「公事」「私事」と記された版位が1枚ずつ2枚1組で置かれることとなっていた。平城宮跡からは、朝庭からではなく「磚積官衙」(せんづみかんが)と呼ばれる遺構から出土した2点の黄褐色の磚(煉瓦)で、それぞれ上面に「公事」「私事」と刻された一辺の長さがおよそ24センチメートルから27センチメートル程度(推計)の正方形の面をもつ直方体の一部が出土している。これは朝堂院外の「曹司」と呼ばれる役所の版位と思われるが、橋本義則は『年中行事絵巻』(宮内庁所蔵)に描かれた版位も参照して、朝庭の版位もだいたい似たようなものではなかったかと推測している。(朝庭 フレッシュアイペディアより)
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朝堂院から見た平城宮
朝堂は、天子が早朝に政務をみる朝政をはじめとする庶政や臣下参列のもと国儀大礼をおこなう重要な庁舎で、聖武天皇の代の後期難波宮(難波京)と長岡宮では8堂、藤原宮・恭仁宮および平安宮では12堂であったが、前期難波宮(難波長柄豊碕宮)では少なくとも14堂以上の朝堂があったことを確認している。平城宮の朝堂院は前半・後半を通じて2つのタイプが並列しており、1つは12堂の従来型の朝堂区域ともう1つは饗宴など朝儀に特化したであろうと推定される4堂からなる朝堂区域である。8堂以上の朝堂をもつ朝堂院は、いずれの場合も中軸線をはさんでL字状ないし逆L字状の線対称に朝堂の殿舎が配置され、全体としては「コ」の字状の平面形となった。(朝堂院 フレッシュアイペディアより)
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平城・相楽ニュータウンから見た平城宮
平城宮造営の際の瓦窯跡、古墳、役の行者像のある行者の道等の歴史的風土・景観を生かすため、奈良市内から景観を確認したうえで平城宮跡・東大寺二月堂から見通せる平城地区南西部の尾根4ヶ所(114,000m²)は緑地とし、平城宮関連の瓦窯跡などの文化財については京都府教育委員会・奈良県教育委員会に発掘調査を委託。 また、平城地区は奈良県の開発技術指導要綱の施工面積に対する公園・緑地割合を12%以上にするようにという条件に合うよう公園・緑地の基本設計を行い、相楽地区も隣接する旧集落への配慮から緑地を設ける。(平城・相楽ニュータウン フレッシュアイペディアより)