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  • 児島郡

    児島郡から見た平城宮平城宮

    和名抄には三家郷、賀茂郷、児島郷、都羅郷の4郷が記載されている。郡衙の位置については三家郷(岡山市南区郡あたり)や児島郷(倉敷市児島の林あたり)などの説がある。また、平城宮出土の木簡には「吉備国子嶋郡小豆郷」、「備前国児嶋郡賀茂郷」との記載がある。児島郡 フレッシュアイペディアより)

  • 吾川郡

    吾川郡から見た平城宮平城宮

    古くは阿川郡とも書いた。資料的な根拠はないが、7世紀の評制施行とともに設置されたと考えられている。存在が確認できるもっとも古い資料は、平城宮跡の発掘調査で見つかった「土左国吾川郡」と書かれた木簡である。この木簡は天平7、8年頃(735年、736年)頃のものと推定されるので、吾川郡もそれ以前に設置されたことになる。史料的には、天平勝宝4年(752年)10月に書かれた造東大寺司牒に、土左国の吾川郡大野郷に東大寺の封戸が50戸あるというものが初見である。また、西大寺旧境内で見つかった宝亀2年(771年)以前と推定される木簡に、土佐国の阿川という郡が見える。吾川郡 フレッシュアイペディアより)

  • 幡多郡

    幡多郡から見た平城宮平城宮

    古くは播多郡とも書いた。平城宮跡で出土した木簡に、「播多郡嶋田里」と記されたのが、幡多郡の存在を示すもっとも古い証拠である。国郡里制が施行されていた大宝元年(701年)から霊亀元年(715年)のものである。今ある文献で初めて記すのは、貞観2年(860年)6月29日、土左国播多郡の地10町を施薬院に与えた事を記す『日本三代実録』である。幡多郡 フレッシュアイペディアより)

  • 三木郡

    三木郡から見た平城宮平城宮

    『和名抄』にない山下里は、平城宮の東院南門(推定建部門)外の溝跡から発見された荷札と考えられる木簡に「讃岐国三木郡山下里」と記されていた。溝の年代により、奈良時代前半にはあったと推定される。三木郡 フレッシュアイペディアより)

  • 黄金まくわ

    黄金まくわから見た平城宮跡平城宮

    大和でのウリの栽培の歴史は古く、約2000年前の弥生時代の遺跡である唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町)では、土器に付着したウリの種子が見つかっている。橿原神宮外苑(奈良県橿原市)の上代井遺構からはウリの皮が、平城宮跡東方官衙地区(奈良市)からは種が、また西大寺食堂院井戸(奈良市)からは「瓜」と書かれた木簡と種が、それぞれ出土している。黄金まくわ フレッシュアイペディアより)

  • 奈良教育大学附属小学校

    奈良教育大学附属小学校から見た平城宮跡平城宮

    植村牧場、株式会社瓦道、竹西農園(無農薬有機栽培茶)、川上村森林組合、近畿大学水産研究所大島実験場(マグロ養殖)、勝浦漁業協同組合、セキスイハイム近畿株式会社、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館、平城宮跡資料館、国立天文台ハワイ観測所すばる望遠鏡、広島平和記念資料館などを関連機関としている。奈良教育大学附属小学校 フレッシュアイペディアより)

  • 田中琢

    田中琢から見た平城宮平城宮

    滋賀県出身。京都大学卒、同大学院修士課程修了。59年奈良国立文化財研究所所員、のち同埋蔵文化財センター所長、文化庁文化財鑑査官をへて、94年奈良国立文化財研究所長。99年退官。平城宮跡の発掘調査では木簡第1号発見者となった。田中琢 フレッシュアイペディアより)

  • 盾

    から見た平城宮平城宮

    奈良県の3世紀から4世紀にかけての遺跡からは多くの木製盾と木製埴輪(矢傷などがない)が出土している。5世紀頃になると、鉄製盾が登場し、以降、革製、石製盾(実用武具ではなく、石製埴輪であり、福岡県に見られる)なども用いられるようになり、5世紀末から6世紀にかけて、盾持人埴輪が盛んに古墳の周囲に置かれるようになる。古墳を悪霊・邪気の類から守るための呪具として制作されたとみられている。大阪府八尾市美園遺跡の方墳から出土した家形埴輪の2階の壁には盾を表す線刻があり、悪霊の建物への侵入を防ぐ役割を担っていたと解釈されている。建物の四方に盾を立てたと推測されている。また、『続日本紀』において、文武天皇2年(698年)11月に行われた大嘗に榎井倭麻呂が大盾を立てる儀礼を行い、以降、大嘗に当たり、物部・石上・榎井氏によって、大嘗宮の門に盾を立てることが慣行となったとある。古代日本において盾は実用具以外の面も持ち合わせており、権力者の墓や建物、宮門を悪霊の類から守る信仰は一例とみられる。中には、石室内に盾が描かれている例もある。権力者の間で仏教が普及すると、こうした盾の信仰も忘れ去られたものとみられる。奈良県四条古墳出土の5世紀の木製盾やそれと形状が類似する盾形埴輪(奈良県から静岡県にかけて見られる上部がY字状でくびれが多い盾)などから5世紀当時の盾の長さは130センチ前後であり、盾持人埴輪の表現にある様に顔は丸出しだったとみられる(四条古墳出土の木製品については、祭祀盾とする見解が一般的であるが、研究者によっては疑っており、杖とする見解もある。また、5世紀の近畿圏では小型な手持ち盾の例もある)。奈良県の5世紀の遺跡から出土した鉄製盾の長さも130センチ程である。この他、隼人盾があり、朝廷が隼人を制圧した後、内国に移配した結果、平城宮跡からも出土している。この隼人盾の長さは150センチである。これは、『延喜式』の「長さ五尺、広さ一尺八寸、厚さ一寸、頭には馬髪を編みつけ、赤白の土墨でもって鈎(こう)形を画く」とある記述と合致し、外国からの客を迎える際の規定であった。6世紀の東国の盾持人埴輪を見る限り、西国よりシンプルなデザインとなっている。 フレッシュアイペディアより)

  • 中街道 (下ツ道)

    中街道 (下ツ道)から見た平城宮跡平城宮

    7世紀中頃に、奈良盆地を南北に走る大道・下ツ道として整備された。見瀬丸山古墳の前面を起点とし、藤原京の西四坊大路(現在の橿原市八木あたり)から、奈良盆地の中央をまっすぐ北へ進み、平城京の朱雀大路(現在の平城宮跡)に至る。橿原市から大和郡山市にかけては、現在の国道24号の約250m西方に並行する。中街道 (下ツ道) フレッシュアイペディアより)

  • 坪井清足

    坪井清足から見た平城宮平城宮

    平城宮』中央公論美術出版、1977年。坪井清足 フレッシュアイペディアより)

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