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世界平和記念聖堂から見た広島市への原子爆弾投下
その教会が1945年(昭和20年)8月6日の原子爆弾投下によって倒壊・焼失してしまうと、その時直接被爆したドイツ人主任司祭フーゴ・ラッサール(昭和23年10月25日、日本に帰化し愛宮真備〈えのみや まきび〉と改名)は、この地に原爆犠牲者を弔うだけでなく、全世界の友情と世界平和を祈念するための聖堂をあらたに建設することを思い立った。このラッサール神父の発願は当時のローマ教皇ピオ12世の支持を得たあと、カトリック信者をはじめとする真に恒久平和を願う人々の共感をも呼び起こし、それが世界各地から届けられる多大な浄財や寄贈品の形となって、世界平和記念聖堂は建設された。(世界平和記念聖堂 フレッシュアイペディアより)
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この世界の片隅にから見た広島市への原子爆弾投下
やがて日本の戦況が劣勢になり、軍港の街である呉は1945年(昭和20年)3月19日を境に、頻繁に空襲を受けるようになる。それでもすずは、戦時下の日常を明るく過ごそうとするが、同年6月22日の空襲で、通常爆弾に混ぜて投下されていた時限爆弾(地雷弾)の爆発により、すずは目の前で晴美を亡くし、自らも負傷により右手を失ってしまう。意識が戻ったすずは、晴美を守れなかったことを径子に責められる。絵を描くための右手を失ったすずが認識する世界は、左手で描いた漫画のように歪んで見えるようになり、同時にすずは、人の死が日常となったこの世界に順応しつつある自分こそが歪んでいるのだという思いを抱く。同年7月1日の空襲では呉市街地が焼け野原となり、郊外にある北條家にも焼夷弾が落下する。見舞いにきた妹のすみは、江波のお祭りの日に実家に帰ってくるように誘う。周作との間柄も、リンに対する嫉妬でぎくしゃくしており、すずは北條家での居場所を失いつつあった。一度は広島に戻ることを決断するすずであったが、帰りの汽車に乗る予定であった当日の8月6日の朝、すずは径子と和解して翻意し、北條家に残ることを決意する。結果としてすずは、その日に広島市へと投下された原子爆弾による被爆を免れるが、爆心地から約20キロメートル離れた北條家でも閃光と衝撃波が響き、故郷の広島方面から立ち上る巨大な雲を目撃する。8月15日、ラジオで終戦の詔勅を聞いたすずは家を飛び出し泣き崩れる。それまで正義の戦争と信じていたものの正体が、ただの暴力に過ぎなかったことに思い至ったすずは、何も知らないまま死にたかったと独白する。(この世界の片隅に フレッシュアイペディアより)