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森本公誠から見た広島市への原子爆弾投下
兵庫県姫路市生まれ。1941年、父が京城の師団司令部附となり家族で移住。京城府の龍山国民学校に入学。父の異動のため帰国し、小学1年の二学期から小学四年まで広島市で過ごす。通った中島国民学校(現・広島市立中島小学校)は今の平和記念公園の南側にあり、原爆の爆心地のすぐ近くだった。退役していた父が再び臨時招集を受け、原爆投下4ヶ月前の1945年3月に奈良に転居。広島の家の近所の子供や友人はほとんど亡くなった。15歳で東大寺に入寺。奈良女子大学附属中等教育学校を経て1957年、京都大学文学部卒業。1961年エジプト・カイロ大学留学。1964年京都大学大学院文学研究科博士課程修了。1968年京都大学文学博士取得。(森本公誠 フレッシュアイペディアより)
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本川町停留場から見た広島市への原子爆弾投下
翌年の1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下により路線は被害を受け休止される。それでも己斐方面から復旧がなされ、本線は同年中に運行を再開した。このとき相生橋の西詰から当停留場を経て十日市町へ向かう区間の線路は戦前と同じ位置で復旧されたが、当停留場を境に相生橋方面は本線として、十日市町方面は横川線として後から建設された経緯を持つために両方の線路は一直線上にはなく、左右に蛇行していた。これを解消するため、1956年(昭和31年)に同区間の軌道が移設・直線化されている。その後1965年(昭和40年)4月1日には広島市が市内の町名変更を実施、左官町が本川町に改称されたのに伴い停留場名は本川町に改称された。(本川町停留場 フレッシュアイペディアより)
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日赤病院前停留場から見た広島市への原子爆弾投下
当停留場は1912年(大正元年)、宇品線が紙屋町から御幸橋までの区間で開通した際に高等師範前停留場(こうとうしはんまえていりゅうじょう)として開設された。その名が示す通り、開業当時は広島高等師範学校が停留場前に所在していたが、1929年(昭和4年)に広島文理科大学が設立され広島高師がその附属校になると、停留場名もこのころ大学前停留場(だいがくまえていりゅうじょう)に変更された。1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下により広島電鉄の市内線は被害を受け休止されるが、当停留場を含む宇品線の紙屋町から電鉄前までの区間は同年9月中には運行を再開している。(日赤病院前停留場 フレッシュアイペディアより)
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皆実町六丁目停留場から見た広島市への原子爆弾投下
西堤防沿いに敷かれていた軌道は1935年(昭和10年)に東にある宇品通り上に移設され、専売局前停留場はこのとき廃止された。そして同日新線上に開設されたのが当停留場である。当時の停留場名は皆実町停留場(みなみまちていりゅうじょう)であった。皆実線が開業し2路線が分岐する停留場となったのは太平洋戦争下の1944年(昭和19年)で、停留場名はこのとき皆実町三丁目停留場(みなみまちさんちょうめていりゅうじょう)に改称したとされる。しかしその翌年の1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下により市内電車は全線が休止される。それでも宇品線は当停留場を含む電鉄前から向宇品までの区間が同月中に復旧、皆実線は遅れて1948年(昭和23年)に全線が復旧した。停留場名は戦後まもなく専売局前停留場、1949年(昭和24年)ころに専売公社前停留場(せんばいこうしゃまえていりゅうじょう)と相次いで改称された。その後1962年(昭和37年)ころに再び皆実町三丁目に改称され、皆実町六丁目と称するようになったのは1971年(昭和46年)からのことである。(皆実町六丁目停留場 フレッシュアイペディアより)
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加古町・住吉町 (広島市)から見た広島市への原子爆弾投下
明治期に入ってこの町には1877年公立広島病院(県立広島病院の前身)が設置、翌78年に広島県庁舎が移転してきた。両者はともに原爆被災までこの町に所在したため、隣の中島新町に一時市役所が置かれていたこともあわせ、戦前期における地方行政の中心地という様相を呈した(また広島監獄(現・広島刑務所)も1888年に吉島に移転するまで水主町に置かれていた)。古い武家町としての歴史と、また多くの役所・公共機関が所在していたことから、この町は戦前の広島では格式ある屋敷町として知られていた。(加古町・住吉町 (広島市) フレッシュアイペディアより)