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広島のサッカースタジアム構想から見た広島市への原子爆弾投下
戦後、広島市への原子爆弾投下からの復興の最中、1949年(昭和24年)広島平和記念都市建設法制定され、広島市中心部に広島平和記念公園建設が計画された。この中で浜井信三市長は平和公園構想の他に、基町の広島城から旧太田川に挟まれた一帯を都市公園あるいは運動公園とする構想を持っていた。1951年、丹下健三グループが計画した当初の平和公園計画にもこの構想が盛り込まれており、その中で球技広場を現在のひろしま美術館付近(右写真参照)に配置し、その北側の現在中央公園がある場所には陸上競技場を配置する計画が立てられた。なお、戦後一時期まで紙屋町交差点から広島城までの鯉城通りはGHQのダグラス・マッカーサーにちなみマッカーサー道路と呼ばれ、その上端に計画されたスタジアム構想(陸上競技場のほうであり球技広場ではない)のことを「マッカーサースタジアム」構想とも呼ばれていた。(広島のサッカースタジアム構想 フレッシュアイペディアより)
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日本基督教団広島流川教会から見た広島市への原子爆弾投下
1927年に建堂されている教会堂はヴォーリズの設計によるゴシック様式の建物であり、1945年に被爆してしまうが、修復後は1971年まで使用されている。教会に「流川」の名称が冠されているのは、1941年の日本基督教団成立によるものである(日本基督教団の成立前は日本メソヂスト広島中央教会)。「流川」は今日では中四国随一の歓楽街として知られるが、建設当時はまだ歓楽街は発展していなかった。(日本基督教団広島流川教会 フレッシュアイペディアより)
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