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淡口憲治から見た張本勲
1970年のドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。当時の監督川上哲治の期待が大きく、入団1年目より一軍に昇格を果たす。頃から頭角を現し、には左翼手、右翼手としてレギュラーに定着、規定打席不足ながらも打率.293の成績を残す。将来を嘱望されていたが、に日本ハムから張本勲がトレードで移籍してくると、張本・柳田俊郎・末次利光との外野手のレギュラー争いが激化。レギュラーを奪えなかった淡口は代打での起用が多くなる。1976年10月12日に優勝のマジック1とした試合の4回裏2アウト満塁で安仁屋宗八の2球目のスライダーを叩いて10号本塁打を放ったが、これは同時に日本プロ野球通算700本目の満塁本塁打であった。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、第6戦に山口高志から3点本塁打を放つ。(淡口憲治 フレッシュアイペディアより)
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1971年の東映フライヤーズから見た張本勲
5月3日 - 東京球場での対ロッテ5回戦で10回表に作道烝、大下剛史、大橋穣、張本勲、大杉勝男による日本プロ野球史上初の5者連続本塁打を記録。(1971年の東映フライヤーズ フレッシュアイペディアより)
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巨人軍物語 進め!!栄光へから見た張本勲
だがその後、高杉が交通事故で右腕を負傷、見舞いに来た父を見た高杉は、優しい中にもスパルタ教育を教える長嶋茂雄監督を思わせる。だが高杉の絶望は深い。そんな高杉に大山コーチは、張本勲選手が4歳の時大火傷を負いながらも、やがて「安打製造機」と呼ばれる打者に成長したことを教える。それを知った高杉は明るさを取り戻した。(巨人軍物語 進め!!栄光へ フレッシュアイペディアより)