298件中 61 - 70件表示
  • 張本勲

    張本勲から見た北海道日本ハムファイターズ

    中日ドラゴンズと東映フライヤーズの一騎討ちになったが、東京への憧れもあり、に東映フライヤーズに入団。当時の東映は同郷の先輩である岩本義行を始め、母校である浪商の先輩を多数抱えていた。契約金は200万であった(中日は600万を提示していた)。張本はまだテレビがなくセ・リーグの方が人気があるとは知らなかったため、「わかっていたら中日に入団していたと思う」と話している。なお、この入団と前後して東映の社長で球団オーナーの大川博は当時プロ野球の規約で「外国人選手は2人まで」となっていた問題の改正に取り組み、「生まれた時に日本の国籍を持っていた選手」は外国人選手に含めないと改正させている。契約金200万で母親のために広島に念願の一軒家を建てた。若いころ、仲のいい王貞治をこの家に招いたこともある。張本勲 フレッシュアイペディアより)

  • 張本勲

    張本勲から見た阪神タイガース

    前年のオフに大杉勝男・白仁天らが移籍し、張本はこの時について「日本ハムに身売りになって、三原さんが社長になって、娘婿の中西さんが監督になって、土橋さんも球団から去って。チームもバラバラ。みんなチームからいなくなって。自分もチームから出ないと行けないと思った」と述べている。張本が「もし不要なら出してほしい」と直訴すると、三原に「希望する球団に行かせよう」と言われ、強さへの憧れからファンでもあった巨人を挙げた。また、張本は当時阪神タイガース監督の吉田義男に誘われて一時は阪神行きを決意し、家まで用意していたという。しかし突然巨人からも誘われ、しかも決定項として扱われていたため、慌てて吉田に連絡を取ると、吉田は憎まれ口ひとつ言わず「ええ話やないか。巨人に行けよ」と了承した。現在でも吉田とは「あの時、ウチ(阪神)へ来とったら面白かったなあ」という話になるという。張本勲 フレッシュアイペディアより)

  • 張本勲

    張本勲から見た千葉ロッテマリーンズ

    、オーナーの重光武雄の強い誘いと3000安打達成したかった張本の意向もあり、ロッテ・オリオンズに移籍。同年5月28日、地元川崎球場での阪急ブレーブスとの対戦において、山口高志投手から日本プロ野球史上初となる通算3000本安打を本塁打で達成。この快挙を記念したメモリアルプレートが同球場に展示された。9月28日には川崎球場でのダブルヘッダーの第1試合、近鉄との対戦において、日本プロ野球史上3人目となる通算500号本塁打を達成した。張本勲 フレッシュアイペディアより)

  • 張本勲

    張本勲から見たスポーツニッポン

    引退後は、1982年より東京放送(TBSテレビ・TBSラジオ)野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を務める。また、2000年頃よりTBSテレビの『サンデーモーニング』のスポーツコーナー『週刊 御意見番』に大沢啓二(2010年10月の大沢死去)と共にコメンテーター(御意見番)としてレギュラー出演。2006年まではテレビ・ラジオの中継に出演していたが、2007年以降は「週刊 御意見番」への出演に絞る。中継から外れて以降も、各出版社が発売している一部プロ野球名鑑に掲載される解説者・評論家名鑑 では引き続きTBS解説者として掲載されている(2012年からは一部名鑑 でフリー解説者として扱われている)ほか、『サンデーモーニング』公式サイト内同コーナー情報ページでは「TBS野球解説者」と明記されている。張本勲 フレッシュアイペディアより)

  • 張本勲

    張本勲から見た藤村富美男

    東映時代に大杉勝男とクリーンナップを組んだ。大杉は境遇が似て、出身も近かったこともありよくかわいがった。張本はテスト生だった大杉の打撃を見て、「こいつは三冠王を取る」と断言し、後日「大杉に感じた才能は、後の落合博満にも感じたものと共通した」と打ち明けるほど、当時の打撃コーチ・藤村富美男と同じく、いち早く大杉の才能を見出した一人でもある。張本勲 フレッシュアイペディアより)

  • 張本勲

    張本勲から見た日之出出版

    『プロ野球への伝言:野球愛 野球の誇り ベースボールの奢り』(日之出出版、2009年12月)ISBN 978-4-89198-132-7 C0075張本勲 フレッシュアイペディアより)

  • 張本勲

    張本勲から見た大阪近鉄バファローズ

    現役時代に打撃のコツについて教えを乞いに行ったことがある。その相手は当時近鉄に在籍していたジャック・ブルームで、張本はブルームの外角打ちの上手さに感心し、外角打ちのコツを聞きに行った。それに対してブルームは、「外角を打つにはまず内角打ちが上手くなければいけない。それは、外角に的を絞っているときに内角にストレートが来ると絶対に手が出ないからだ。相手投手は、こっちが内角打ちが上手いと、内角に投げるのを嫌がって外角に投げてくる。そこを狙い打つのだ」と回答。その後、張本は首位打者の常連となっている。張本勲 フレッシュアイペディアより)

  • 張本勲

    張本勲から見た水沼四郎

    日本ハム時代と巨人時代に、それぞれ1回ずつ警察の取り調べを受けたことがある。暴言とおぼしき発言をされたとして試合前に城之内邦雄(当時ロッテ)を殴った件と、1976年4月16日、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファン500人に包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である。この広島での事件は、張本がセ・リーグの巨人に移籍して最初の広島遠征だった日で、故郷に錦を飾っただけに母や兄も招待していた。ところが故郷に錦を飾るどころか、張本は広島ファンに目の敵にされ、民族蔑視的なヤジを集中的に浴びた。6-4と広島リードの9回表に巨人が1点を返し、なお二死一、二塁から山本功児がセンター前ヒットを放ち、同点と思われたが、山本浩二の好返球と水沼四郎の好ブロックで二塁ランナー土井正三が本塁タッチアウトになった。微妙な判定に長嶋監督以下、コーチ陣、巨人ナインが本塁上の審判に詰め寄り猛抗議を繰り広げた。それに怒った広島ファンがグラウンドに飛び出し長嶋監督に殴りかかろうとした。これは張本と原田治明、黒江透修コーチらがブロックし事なきを得たが、広島ファン500人が巨人の帰りのバスを取り囲んだ。広島ファンは口々に「張本あやまれ!」と連呼。広島出身の張本が宿敵・巨人に移籍したのを快く思わないファンも多く、また前年球団創立初のリーグ優勝を果たした広島だったが、この年は開幕ダッシュに失敗し、この試合まで5敗2分けと低迷し、広島ファンのフラストレーションが溜まっていた。張本が特に標的にされ、帰りのバスに乗り込む際に暴漢が張本を襲った。相手を避けるために張本が手で払いのけたとき、後輩選手がバットで暴漢をコンと叩いたら頭が割れて血が出た。すると周囲のファンが「張本にやられた」と騒ぎ始めた。張本は傷害容疑で事情聴取されたが自分をかばってくれた選手の名を明かさなかった。母や兄も現場をしっかり見ていたから「やったのは自分じゃないとなぜ言わないのか」と責めたが「私を助けようとした後輩の名前はいえない」と頑なに話さなかった。後に暴漢が槌田誠に頭を叩かれる場面を偶然撮影した写真が出て張本の嫌疑は晴れた。しかし疑われたときに出た山のような報道に比べると真実を伝える記事はごく僅かだった。この事件で張本が最もショックを受けたのは民団の幹部が「やったんなら、手錠をかけて刑務所へ連れていけ」と発言したことだったという。張本勲 フレッシュアイペディアより)

  • 張本勲

    張本勲から見た三浦清弘

    3000塁打:1971年5月12日、対南海ホークス5回戦(大阪球場)、6回表に三浦清弘から右越ソロ ※史上8人目張本勲 フレッシュアイペディアより)

  • 張本勲

    張本勲から見た三原脩

    日拓ホームフライヤーズとなったの後期からは、選手兼任でコーチ(ヘッド兼打撃コーチ)を務めた。コーチになった理由は後期から監督になった土橋正幸に「おまえは兼任でヘッドコーチをやれ。選手をまとめろ。2、3年でバトンタッチするから」と言われたためであった。しかし球団は翌1974年に日本ハムに身売り、土橋は退団した。この頃から毎年、ストーブリーグを賑わせた。には大洋とトレード話がほぼまとまりかけながら、御破算となる。前期リーグ終了後には、ロッテが張本獲得に乗り出す。日本ハムの三原脩球団社長が「張本は球界のガンだ」と発言するなど、張本を無理やり放出しようとし、三原社長と中西太監督との間の感情はこじれにこじれた。日本ハム製品が韓国でよく売れていたため、大社義規オーナーとしても“韓国の英雄”である張本の気持ちを無下にはできず、新任の大沢啓二監督も日本ハムから出たい張本の気持ちを変えることはできなかった。張本勲 フレッシュアイペディアより)

298件中 61 - 70件表示

「張本勲」のニューストピックワード

  • 2チームじゃないか…2位を確保の気持ちはロッテには強い

  • 今年はダルビッシュぐらい…あとは全滅だ。恥ずかしい成績

  • サンデーモーニング