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里山浩作から見た把瑠都凱斗
序ノ口となった翌5月場所では、同場所において初土俵を踏んだ同部屋の把瑠都との稽古で負傷し、最初の二番相撲を休場するが、その後から出場して全て勝利し、5勝2休の成績を挙げて勝ち越しを果たした。同年9月場所では序二段で7戦全勝の成績を挙げて優勝決定戦へ進出したものの、優勝決定戦では把瑠都に破れて優勝は逃した。幕下へ昇進した2005年1月場所には初めて負け越しを経験したが、翌3月場所から4場所連続で勝ち越し、東幕下4枚目の位置まで番付を上げた同年11月場所でも5勝2敗と勝ち越しを決め、翌2006年1月場所には新十両へ昇進した。同年8月には尾上親方が新設した尾上部屋へと移籍した。約1年にわたって十両を務めた後、2007年3月場所に東十両4枚目の位置で12勝3敗の成績を挙げて初の十両優勝を果たし、翌5月場所に新入幕(西前頭12枚目)。新入幕となった2007年5月場所では7勝8敗と負け越し、続く7月場所でも2勝13敗と大敗して、翌9月場所において十両へ陥落(西十両5枚目)。(里山浩作 フレッシュアイペディアより)
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妙義龍泰成から見た把瑠都凱斗
新入幕となった2011年11月場所では11日目に勝ち越しを決め、最終的には10勝5敗という好成績を挙げた。翌2012年1月場所でも12日目に勝ち越しを決め、9勝6敗の成績を挙げて初の技能賞を受賞した。自己最高位となる東前頭筆頭の位置で迎えた翌3月場所では、横綱・大関陣に対して1勝もできず、早々と11日目に負け越しが決まってしまったものの、結果的には7勝8敗と1点の負け越しに抑えてこの場所を終えた。翌5月場所では4大関を破る活躍を見せて、9勝6敗の成績を挙げて2回目の技能賞を受賞した。翌7月場所では新三役へ昇進(東小結)した。兵庫県からの新三役は、1991年5月場所の貴闘力以来。その場所は3日目に大関・鶴竜を破り、8日目にそれまで全勝だった大関・把瑠都を破る活躍を見せて、8勝7敗と勝ち越しを決めて3回目の技能賞を受賞した。翌9月場所には新関脇へ昇進(東関脇)。兵庫県からの新関脇は、1991年7月場所の貴闘力以来。その場所は初日に大関・稀勢の里戦で敗れたが、2日目から6連勝し、11日目に勝ち越しが決定。最終的に10勝5敗の好成績を挙げて4回目の技能賞を受賞した。3場所連続しての技能賞受賞は、1987年5月場所から同年9月場所にかけての旭富士以来25年ぶりのこととなった。場所後に妙義龍が現在の夫人を食事に誘い、交際に発展。翌11月場所は序盤から苦戦して、早々と10日目に負け越しが決まってしまい、結果的にも6勝9敗に終わったものの、11日目に大関・鶴竜、12日目には新横綱の日馬富士、13日目には大関・琴奨菊を破って意地を示した。(妙義龍泰成 フレッシュアイペディアより)
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臥牙丸勝から見た把瑠都凱斗
2011年9月場所では初日に敗れたものの2日目から10連勝して一時は優勝争いに加わった。その後は3連敗して優勝は逃したものの、11日目には初対戦で大関の把瑠都を破り、最終的には11勝4敗の好成績を挙げて、初の三賞となる敢闘賞を受賞した。西前頭3枚目の位置まで番付を上げた翌11月場所では2勝13敗と大敗したが、翌2012年1月場所では西前頭10枚目の位置で12勝3敗の好成績を挙げて2回目の敢闘賞を受賞した。翌3月場所で新三役となる自己最高位の東小結へ昇進したが、199kgに留めていた体重が210kgにまで増加し、ばったりと前に倒れる相撲が多くなり、結果的には6勝9敗の負け越しに終わった。この3月場所後に木瀬部屋が再興されたため、それに伴い臥牙丸は北の湖部屋から木瀬部屋へと再び転籍したが、臥牙丸は北の湖部屋で過ごした間に兄弟子らに親切にしてもらったために複雑な心境であったと語っている。木瀬部屋へ戻って初の場所となった同年5月場所では西前頭2枚目の位置で5勝10敗と大敗したものの、続く7月場所では10勝5敗という好成績を挙げた。翌9月場所における場所前体重測定では自己最高体重を更新する212kgを記録し、「この目方は人としてどうかと思う。日本食がおいしいのがいけないんです」と語った。その9月場所では出足の勢いに精彩を欠いて、西前頭2枚目の位置で4勝11敗と大敗した。2013年9月場所は東前頭9枚目の地位で6勝9敗の負け越しを喫し、翌11月場所はやや運悪く4枚半下降となる西前頭13枚目まで番付を落とした。この11月場所と翌2014年1月場所は8勝7敗の勝ち越しで終え、西前頭9枚目の地位で土俵に上がった翌3月場所を6勝9敗で終えると続く5月場所は辛くも4枚半下降となる東前頭14枚目まで番付を落とした。2014年7月場所は西前頭15枚目の地位で5勝10敗を喫し、これにより新入幕以降24場所連続で務め上げた幕内の座を離れることとなった。一時は冗談交じりに『引退』の二文字を口にするようになったものの、大好きなラーメンや酒を控え、稽古を真面目に行うようになったことで復調。同年11月場所は西十両5枚目まで地位を落とし、この場所を8勝7敗で場所を終えて5場所ぶりの勝ち越しを果たす。2015年1月場所では9日目に勝ち越しを確定させるなど絶好調であり、この場所はかつて同部屋であった北太樹が13勝2敗での十両優勝を飾った中でそれに次ぐ11勝4敗の好成績を残した。しかしこの場所は幕内の中でも下から3番目の地位であったため、千秋楽の取組の前に三賞無しが確定していた。(臥牙丸勝 フレッシュアイペディアより)
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平成から見た把瑠都凱斗
朝青龍の全盛期であり、7場所連続優勝、年間全場所優勝、年間最多勝84勝などの記録を更新した。1990年代に主流だったハワイ出身の大型力士が引退して皆無となったが、代わりに東アジア諸国出身力士の日馬富士と、把瑠都・琴欧洲などのヨーロッパ諸国の出身力士が次々と入幕を果たして幕内力士の3割が外国人力士になる。白青(白鵬・朝青龍)時代のモンゴル力士時代で、横綱(白鵬)は2009年(平成21年)に年間最多勝記録を更新して86勝をした。大相撲が国際化した時代である。また日本人力士の高学歴化として学生相撲出身者が増加して中卒のたたき上げの力士が減少する。時津風部屋力士暴行死事件・大相撲力士大麻問題・朝青龍の不祥事による横綱の品格問題など日本相撲協会の不祥事が頻発した。北の湖理事長の方針で2003年(平成15年)11月場所を最後に、公傷制度が廃止された。(平成 フレッシュアイペディアより)