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幸倶楽部派から見た倒閣
最大会派の研究会と協調しながら、立憲政友会の第4次伊藤内閣や西園寺内閣などを攻撃していったが、大正期に入ると、研究会の膨張に対して危機感を抱くようになり、更に1918年に政友会の原内閣が成立して後に研究会が同内閣に閣僚を送り込むと、反研究会路線を強めていく事になる。1919年に院内会派の再編で公正会・同成会が成立すると、茶話会・公正会・同成会は幸倶楽部を拠点に連合して研究会及び政友会に対抗した。これを「幸三派(さいわいさんぱ)」と称した。これに研究会と原内閣の連携に反対して離脱した無所属派(第2次)を加えて「幸四派(さいわいよんぱ)・幸無三派/幸無四派」とも呼ばれた。やがて、幸倶楽部派は衆議院において政友会と対立する憲政会に次第に接近するようになる。第2次護憲運動においては、研究会主導の清浦内閣を攻撃して護憲三派とともに倒閣に動いた。(幸倶楽部派 フレッシュアイペディアより)
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予算管理内閣から見た倒閣
羽田内閣がその例とされることがある。羽田内閣は内閣首班指名後の連立与党分裂により少数与党内閣として発足した。日本社会党は連立を離脱したものの当初は倒閣や第一野党の自由民主党との連合を必ずしも指向せず、衆議院の過半数を確保する勢力は無かった。与党陣営は自民党の切り崩しにより衆議院の過半数確保を狙う。しかし、衆議院の過半数議席を有する自社さ3党が連立で合意し、予算成立を画期として内閣不信任決議が可決される見込みとなるに至り、羽田内閣は予算管理内閣として位置付けられるようになった。羽田内閣は予算成立後の不信任案提出を機に総辞職する。(予算管理内閣 フレッシュアイペディアより)
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護憲三派から見た倒閣
一般に第二次護憲運動は憲政擁護・普選実行のスローガンのもとに行われたと考えられている。しかし個別に見ると、政友会は大正9年に普選尚早を理由に衆議院解散をして勝利した経緯があり、個人レベルで普選推進の主張は許可したが、党としては従来路線と矛盾する普選実行をスローガンに掲げることはできなかった。むしろ分裂して対立関係にあった清浦内閣の与党である政友本党は普通選挙推進をスローガンとしていた。また、憲政擁護(憲政の常道、衆議院多数党への政権移譲)についても、政友会は超然内閣であった前政権の加藤友三郎内閣を全面的に支持していたため、超然内閣であるという理由だけで清浦内閣を攻撃するのは難しかった。このため、政友会の小泉策太郎は「特権内閣」のレッテルを張って倒閣運動を企画し、また政友会総裁の高橋是清については子爵を息子へ譲って貴族院議員を辞職して衆議院へ出馬することを進言した。高橋も憲政会の加藤高明総裁に対抗するため、以前より同案を考慮していたので実施に移すこととなった。犬養毅の率いる革新倶楽部も第2次山本内閣で逓信大臣に入閣した実績があり、超然内閣を批判する後ろめたさを持っていた。またこの時に野党に回った加藤高明に犬養は嫌われていた。護憲三派と言われるが、この中で憲政擁護・普選実行を真正面から主張する資格があるのは、長年の野党暮らしをしていた加藤高明の憲政会だけであり、政友会・革新倶楽部とは決して一枚岩ではなかった。(護憲三派 フレッシュアイペディアより)
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重臣会議から見た倒閣
重臣会議のメンバーは公式の会議以外でも一定の政治的同一性を有するグループとしてみられることが多かった。田中義一首相が張作霖爆殺事件の事後処理を巡って1929年に昭和天皇から叱責され辞任した際には、昭和天皇を誑かす重臣グループの陰謀が原因であるとの主張が右翼の間で巻き起こった。天皇自身は昭和天皇独白録において、「久原房之助などが、重臣「ブロック」と云う言葉を作り出し、内閣の倒けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った」と述べている。その後国家主義者の間では重臣たちを「君側の奸」とみなす見方が広まり、1932年の五・一五事件や1936年の二・二六事件では当時の首相、大臣と共に重臣も暗殺の対象となった。太平洋戦争(大東亜戦争)中に東條英機首相の指導体制への不満が高まると重臣の岡田啓介が中心となった東條内閣の倒閣工作により東條は辞任に追い込まれた。岡田らは重臣制度が消滅した戦後にも、昭和天皇の東京裁判訴追を回避するための運動を協力して行っている。(重臣会議 フレッシュアイペディアより)
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在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ク詔勅から見た倒閣
12月3日から衆議院予算委員会(委員長:河野広中)での明治26年度予算の審議が開始されたが、委員会は予算案歳出総額8376万円のうち、新艦建造費332万円全額を含めた885万円の削減を要求した。政府はこれを受けて対応を協議したが、議会(衆議院)との妥協を主張する後藤象二郎農商務大臣と強硬策を唱える山縣有朋司法大臣との間で意見が一致せず、ベテランとは言え準備もないままに突如内閣の首班を代行する事になった井上もその対応に苦慮していた。井上は静養中の伊藤に手紙を送って協議した結果、吏党も民党もともに倒閣を画策していると判断して山縣の意見を採る事とした。(在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告ク詔勅 フレッシュアイペディアより)
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