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文民統制から見たハリー・S・トルーマン
朝鮮戦争時においては、国連軍の司令官であったダグラス・マッカーサーが軍事的合理性から、核兵器の使用を含めた中華人民共和国への攻撃を示唆した。これに対し、トルーマン大統領は、中国への攻撃は、軍事面からは必要かもしれないが、全体的な国際情勢の観点から不利益となりうると考え、マッカーサーと意見が対立したために彼を罷免した。(文民統制 フレッシュアイペディアより)
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文民統制から見た丸山昂
旧内務官僚(警察官僚)出身で、後に防衛事務次官を務めた丸山昂は防衛庁のシビリアンコントロールについて、防衛庁内局の高官でありながら批判的に見ており、「(旧内務官僚は)軍国主義を押さえるのは俺たちだという、そういう意気込みを持って入ってきたのじゃないかな。たとえば、制服を呼んで、星の数が多い制服を前に立たせておいて、こっちは机の上に足をのせて聞くとかね。それが内局のコントロールなのだ、というふうに取られておった。」と述べている。また、当時の防衛庁内局が制服組を押さえる事だけに腐心し、本来力を入れるべき課題である日米防衛協力・日米共同作戦に関しての内容が丸山曰く「何もない、空っぽ」なまま放置され、日米間の協議から防衛庁が締め出される形で外務省が主導して行われていた事に関して危機感を抱いていた。(文民統制 フレッシュアイペディアより)
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文民統制から見た竹下登
昭和63年02月23日 衆議院予算委員会において竹下登内閣総理大臣が「シビリアンコントロールの原則でございますが、私は、防衛政策等を立案する際に、まず内局と制服とのいろいろな話し合いがあって、内局というものが制服をコントロールすると申しますか、そういう機能がまず第一義的にあるではないか。その後は今度は内閣一体の責任で予算編成をしたりあるいは防衛の基本政策を議論して決定する、そこがまた一つの機関であると思いますが、それをより重要に位置づけるところにかつての国防会議、今の安全保障会議というものがあるんじゃないかというふうに思います。」と述べている。(文民統制 フレッシュアイペディアより)
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文民統制から見た永野茂門
なお、過去の日本において「文民」と言う場合に「旧職業軍人の経歴を有しない者」と規定するか、あるいは、「旧職業軍人の経歴を有する者であって軍国主義的思想に深く染まっている者でない者」とするか、については、意見が分かれていた時代もある(1965年(昭和40年)5月31日衆議院予算委員会 高辻正己・内閣法制局長官答弁など)。野村吉三郎(元海軍大将、太平洋戦争開戦時の駐米大使)の入閣が検討された際に、「文民」規定の問題から断念している。ポツダム宣言受諾時にすでに職業軍人であり、その後自衛隊に入った永野茂門が法務大臣になった時、元自衛官の中谷元・森本敏が防衛閣僚(防衛庁長官・防衛大臣)となった時にも問題視する意見が出た。ただしこの見解は国際的な基準があるわけではなく、例えば米国の国防長官も文民であることが条件であるが、軍人も退役してから10か年が経過すると文民として扱われる。また、英国では、文民かつ政治家(=国会議員)であることを要する。森本敏については非国会議員であったため、むしろ国会議員の地位をもたない者が防衛大臣に就任することは文民統制の理念に反するのではないかとの指摘が出た。(文民統制 フレッシュアイペディアより)
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文民統制から見たセオドア・ルーズベルト
政府職員の政治的中立性の議論は19世紀になされ、米国では1877年ヘイズ大統領の行政命令に端を発し、クリーブランド大統領の1877年の行政命令、T・ルーズベルト大統領の1907年6月3日の行政命令に受け継がれた。やがて1930年代のニューディール政策以降、行政機関と職員数、その権限が急激に拡大したことを背景に1939年のハッチ法制定に到った。(文民統制 フレッシュアイペディアより)