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鶴王から見た新嘗祭
三回忌となる文和4年(1355年)には、従一位の位階が追贈されている。このときにはじめて諱を「頼子」と命名された。また『諸系図』に収める足利家の系図には、尊氏の娘として「女 霊寿院贈一品大夫人」とあり、天皇の妻として皇后、妃に次ぐ地位を意味する官職である「夫人」をあわせて追贈されたことが推測される。先述の洞院公賢はこのとき前太政大臣であったが、有職故実の大家として公武の尊敬を集めており、11月4日、この案件の担当者に指名された柳原忠光から指導を仰ぐ書状を受け取っている。忠光が気にしていたのは、宣下の式次第のほか「無位の人への贈位に先例があるか」という点と「11月21日の新嘗祭に向けた物忌みの最中に贈位を行ってもかまわないか」という点であった。公賢は、前者については「内親王などのほかには覚えがない」と答え、後者については「外記に命じてよく先例を調査させ、それに沿って決定されるべきではないか」とアドバイスしている。公賢の日記『園太暦』の同日条には「無位から従一位への直叙は人臣では未曾有のことではなかろうか。まして神事の最中の贈位とは納得がいかない」と不満を記している。もっとも、尊氏夫妻のお声掛かりの贈位に誰も反対できるはずもなく、11月9日の鶴王の命日に間に合わせたいという尊氏の意向が尊重され、結局は翌々日の6日には従一位の位記があわただしく作成されて交付されている。ちなみに、忠光と公賢が気にかけていたこの年の新嘗祭は「費用が調達できない」という理由で中止になっている。(鶴王 フレッシュアイペディアより)
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御供所 (福岡市)から見た新嘗祭
日本においては、神々に感謝・祈願し霊を鎮めるため神社などに供物を捧げる習慣が、古来から神道儀礼として定着しており、とりわけ稲作中心の農耕文化であったため、気象条件により年によっては凶作となった。そこで、新米など新しい五穀を供えてその年の収穫に感謝し、豊作を祈願する稲作儀礼がさかんに行なわれ、農耕に限らず、神社信仰においては、大漁、安産、地鎮祭、七五三詣などはもとより私的な細事に至るまで、日頃から供物を捧げて祈願する。神社などの儀礼施設に限らず、個人の居宅にも神棚を設けて、榊や灯明とともに神饌と呼ばれる供物を捧げることにより家内安全や招福を祈願し、今日でもその伝統は残されている。その一端として皇室で行なわれる新嘗祭や大嘗祭にもその儀礼が伝わっている。(御供所 (福岡市) フレッシュアイペディアより)