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豊楽院から見た新嘗祭
豊楽(ぶらく)とは和訓「とよのあかり」であり宴会を意味する。豊楽院はその名の通り、饗宴施設として平安京遷都直後、大内裏の正庁である朝堂院の西側に隣接して造営された。四方を築地で囲まれ、南に正門である豊楽門を構えていた。新嘗祭、大嘗祭の宴のほか、正月慶賀、節会(せちえ)、射礼(じゃらい)、饗応などが行われ、正殿である豊楽殿には天皇列席の際に高御座(たかみくら)が置かれた。朝廷の機能が徐々に内裏(天皇の私的住居)へ移行するに従って、朝廷の饗宴は紫宸殿で行われるようになり、その地位を低下させていった。10世紀には廃墟同然のさまであったといわれ、1063年(康平6年)に全焼したのち、再建されることはなかった。(豊楽院 フレッシュアイペディアより)
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冬祭りから見た新嘗祭
冬祭りは秋祭りが持つ収穫祭的要素と春祭りが持つ祈年祭的要素の両方を併せ持っており、その位置づけについては不明な部分も多い。元々旧暦10月は忌月とされたために月が変わって冬に突入した旧暦11月に収穫祭を行ったが、後にその禁忌が失われて収穫直後に秋祭りが成立したとも言われている。折口信夫は秋から翌春にかけてのこの時期を魂振を行って人間を含めた全ての魂が更新されるための時期として捉え、秋祭り・冬祭り・春祭りは元々一続きの祭り(収穫・魂の更新・祈年)であったのが秋祭りと春祭りが分離して残りが冬祭りとなったと説く。また、柳田國男は冬祭りの中心となる旧暦11月が冬至を含む時期であり春に向かう転機であることを指摘し、日本の祭りは本来旧暦11月を重要視したと説く。朝廷の神祇官の四時祭では旧暦11月の相嘗祭・鎮魂祭・新嘗祭が冬祭りとされ、翌月の月次祭・鎮火・道饗も冬特有の祭事ではないものの冬祭りとして挙行されている。(冬祭り フレッシュアイペディアより)
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