-
1999年の福岡ダイエーホークスから見た新垣渚
1998年のパシフィック・リーグで67勝67敗1分の勝率5割でオリックスと並ぶ3位タイ、21年ぶりのAクラスとなったものの、シーズンオフに主力投手かつ前年度13勝を挙げ最多勝タイの武田一浩がFAで中日へ移籍、また前年度21セーブを挙げた岡本克道が故障により離脱、1991年から主力投手だった木村恵二が戦力外通告を受け西武へ移籍、前年加入した外国籍選手、ブライアン・ウィリアムズ、ルイス・ロペス、ライアン・トンプソンがいずれも1年で退団し、ドラフト会議では、即戦力候補で相思相愛だった新垣渚(沖縄水産)をオリックスと競合の上逃すなど、投手力に不安が残る中、新たに尾花高夫が投手コーチに就任、また球団専務取締役だった根本陸夫が1月から球団社長に就任した。根本は、社長就任から間もない1月29日、必勝祈願に訪れた福岡市の筥崎宮で、「お前たちは何を構えているんだ。世界の王と言わる監督も昔はラーメン店の息子。お前たちとなんら変わりはないんだぞ」と発言、それまで「世界の王」に気後れしていた選手の呪縛を解いたという。(1999年の福岡ダイエーホークス フレッシュアイペディアより)
-
柳瀬明宏から見た新垣渚
開幕を一軍で迎えた。5月17日の対オリックス戦で12回同点の場面で7番手として登板し、安打と四球、盗塁で無死二三塁とした所で伊藤光にライトへ犠牲フライを打たれサヨナラ負けを喫し、チームは首位陥落となった。5月19日に二軍へ降格。5月31日に再び一軍昇格。7月20日の新垣渚のトレード移籍により、生え抜き投手の中で最古株となった。8月20日福岡市内の病院で右肘内側側副靭帯付着部炎症と診断され、出場選手登録を抹消された。9月25日に一軍復帰し2試合を投げた。レギュラーシーズンはどんな場面からも登板し、離脱がありながらも40試合登板、防御率2.67とリーグ優勝に貢献した。クライマックスシリーズは10月16日ファイナルステージ第2戦の8回3点ビハインド二死二塁から中田翔に二塁打を打たれ走者を返してしまったが自身は0回2/3を投げ無失点だった。日本シリーズは第3戦のみベンチ入りしたが登板機会は無かった。(柳瀬明宏 フレッシュアイペディアより)
-
-
小池正晃から見た新垣渚
実家は横浜市保土ケ谷区のお茶屋・丸秀園。1987年から横浜市立峯小学校、1993年から横浜市立宮田中学校出身。中本牧リトルシニアに所属の3年時の、全日本中学野球選手権大会 ジャイアンツカップを制覇。同リトルシニアには同期に小山良男、2年先輩に森野将彦が所属していた。1996年から3年間横浜高校に進み、新垣渚擁する沖縄水産高校を決勝で破り第28回明治神宮野球大会制覇、、松坂大輔、後藤武敏、小山良男らと共に甲子園春夏連覇達成、かながわ・ゆめ国体でも優勝。主に1番右翼手として活躍した。夏の3回戦・星稜戦では先頭打者本塁打を放った。高校通算26本塁打。同年のドラフト会議で地元球団の横浜ベイスターズから6位指名され、入団。(小池正晃 フレッシュアイペディアより)