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  • 本州製紙

    本州製紙から見た日本製紙日本製紙

    後継会社3社は苫小牧製紙(後の2代目王子製紙→新王子製紙→3代目王子製紙→王子ホールディングス)、十條製紙(現日本製紙)とこの本州製紙の3社である。本州製紙は旧王子製紙の工場のうち、本州、特に関東から関西地方にかけて立地する製紙工場6か所(江戸川・富士・岩渕・中津・熊野・淀川)と化学薬品工場1か所(名古屋化学)を引き継いだ。生産高のシェアは3社の中では最も低い(苫小牧17.2%・十條16.8%・本州8.5%)が、発足当初から国内第3位の製紙会社であった。発足当初は主に、上質紙を始めとする印刷用紙や、インディア紙・ライスペーパー(紙巻きタバコの巻紙)・グラシン紙などの薄葉紙、電気絶縁紙などの特殊紙、それに白板紙を生産していた。本州製紙 フレッシュアイペディアより)

  • 王子ホールディングス

    王子ホールディングスから見た日本製紙日本製紙

    王子ホールディングスは1949年(昭和24年)8月1日、過度経済力集中排除法に基づいて解体された王子製紙(初代、以下初代王子製紙)の後継会社の一つとして、苫小牧製紙株式会社の社名で設立された。社名のとおり、初代王子製紙が運営していた苫小牧工場(北海道苫小牧市、現・王子製紙苫小牧工場)を継承し、拠点とした。工場は1か所のみであるが、複数工場を継承した他の後継会社、十條製紙(現:日本製紙)・本州製紙よりも生産量は多く、生産量で発足時より国内トップの製紙会社であった(1949年の生産高シェアは17.2%)。当時の主力製品は新聞用紙である。王子ホールディングス フレッシュアイペディアより)

  • 斉藤知一郎

    斉藤知一郎から見た日本製紙日本製紙

    斉藤 知一郎(さいとう ちいちろう、明治22年(1889年)3月18日 - 昭和36年(1961年)2月16日)は、日本の実業家。大昭和製紙の創業者。斉藤知一郎 フレッシュアイペディアより)

  • 齊藤了英

    齊藤了英から見た日本製紙日本製紙

    齊藤 了英(さいとう りょうえい、大正5年(1916年)4月17日 - 平成8年(1996年)3月30日)は、日本の実業家。大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長。「東海の暴れん坊」の異名をとった。大昭和製紙創立者斉藤知一郎の長男。齊藤了英 フレッシュアイペディアより)

  • 岩畔豪雄

    岩畔豪雄から見た大日本再生製紙日本製紙

    近衛内閣のために各界の人材を集めて「国策研究会」を編成し、そこで総合的に国策を論じた「総合国策十年計画」を策定。これは内閣の基本原案となる。この中に国策としてパルプ自給をはかるという項目が含まれており、これが南喜一と水野成夫が持ち込んだ米糠を媒体に使い、新聞紙からインキを抜いて再生紙を作るというアイデアの採用、軍用の製紙会社・国策パルプ(1938年設立、1940年大日本再生製紙)設立に至る。当時の製紙業界は海軍に近い王子製紙が独占し、陸軍は王子に対し好感情を持っていなかった。また王子製紙の大口の得意先は、毎日新聞と読売新聞であったため、新会社設立にあたり、岩畔の命を受けて動いたのが、朝日新聞の経済部長だった丹波秀伯で、1938年日清紡績社長・宮島清次郎を社長に迎えて国策パルプを設立させた。朝日新聞も自社の息のかかった製紙会社を望んでいた。先の南の持ち込んだアイデアは結局、線維素のパーセントテージが足らず実際には採用されなかったが、岩畔は若い南と水野を非常に買い、元共産党員では、という周囲の反対をはねつけ、二人に国策パルプの全額出資で別会社・大日本再生製紙を作らせた。これはまだ二人が海のものとも山のものとも分からなかったからであるが、南と水野を最初に見出したのは岩畔である。大日本再生製紙の実務は、この二人と丹波が連れてきた篠田弘作を加えた三名で主に行う。鹿内信隆はこの時の陸軍の担当事務官(需品本廠監督官)。太平洋戦争開戦後に岩畔がインド独立工作に関わるため、岩畔は同工作に水野を招いている。岩畔豪雄 フレッシュアイペディアより)

  • 斉藤滋与史

    斉藤滋与史から見た日本製紙日本製紙

    大昭和製紙の創業者斉藤知一郎の次男。斉藤滋与史 フレッシュアイペディアより)

  • 北越紀州製紙

    北越紀州製紙から見た日本製紙日本製紙

    王子製紙が北越製紙に対して経営統合を提案したうえで敵対的買収を試みるも、ホワイトナイトとして三菱商事及び日本製紙が登場し、失敗に終わった。王子製紙は、秘密裏に株式を買い集めて突如としてTOBを仕掛けるのではなく、まずは経営統合案を提示して友好的な買収を志向するという、「和洋折衷」的な手法を採ったものの、そのために、結果としては、北越製紙の経営陣に反撃の機会を与えることとなったと言われている。北越紀州製紙 フレッシュアイペディアより)

  • 文化放送

    文化放送から見た日本製紙日本製紙

    カトリック布教を目的に、聖パウロ修道会が1951年に設立した、財団法人日本文化放送協会(略称 NCB)が前身。開局時には「日本文化の向上を図るとともに、真善美の理想と正義、人道を基調とした健全な民主主義思想の普及、国家の興隆と民族の反映に資する」という理念を掲げていた。しかし経営が内紛して代表者が頻繁に入れ替わったり、「共産圏の日本向け放送ではないか」と言われるほどに偏向をきたしていたり、また左傾・反米化していた日本労働組合総評議会(総評)に乗っ取られるという噂まで出ていた。これに危機感を抱いた財界の呼びかけで、財界と旺文社・講談社等の出版社が協力し、1956年に現在の株式会社に改組し、社長に水野成夫(国策パルプ工業(現 日本製紙)副社長)・会長に渋沢敬三(元日本銀行総裁・大蔵大臣)を送り込んで再建に乗り出した。聖パウロ修道会は、2012年現在も、文化放送の筆頭株主である。文化放送 フレッシュアイペディアより)

  • 江津駅

    江津駅から見た日本製紙日本製紙

    以前は3番線の外側に多くの側線が敷設され、広大な構内だった。そこから日本製紙ケミカル江津事業所(旧・日本製紙江津工場)へ専用線が延びていて、1番線と2番線の間には中線もあったが現在はすべて撤去されており、発生した空き地の向こうに三江線の0キロポストが取り残されている。江津駅 フレッシュアイペディアより)

  • 吉原駅

    吉原駅から見た日本製紙日本製紙

    駅東側にある日本製紙富士工場鈴川製造所(旧・鈴川工場)へ続く専用線があり、コンテナや有蓋車(ワム80000形貨車)を用いる製品輸送などが行われていた。有蓋車の発送先は新座貨物ターミナル駅であった。吉原駅 フレッシュアイペディアより)

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