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  • 新井領一郎

    新井領一郎から見た日本郵船日本郵船

    1887年(明治20年):中国に加えて日本からの生糸輸入の飛躍的増大のため、1870年代後半よりサンフランシスコやシアトル等の埠頭からニューヨーク市近郊のニュージャージー州ホーボーケン(ニューヨーク市マンハッタン島のハドソン川対岸のターミナル駅 Hoboken)や隣接のジャージーシティなどに向けシルクトレインと呼ばれた専用の急行貨物列車が直行で運行された。10?12両で1列車が編成され、強盗を避けるため20人以上の武装した護衛が同乗した。1列車で輸送する生糸の価値は500万から800万ドルに達し、金利や貨物保険料だけでも莫大であった。生糸輸送は大陸横断鉄道各社にとって最大の収益源で旅客輸送より優先された。生糸は入港船上から岸壁の引込線上で待機している生糸専用列車に直接搬入され、接岸後3時間ほどで発車した。大陸横断鉄道による生糸輸送は当初サンフランシスコ発(オマハ経由)が唯一の輸送ルートで、ユニオン・パシフィック鉄道(UP)が利用された。所要時間は90時間以上あったが80数時間まで短縮された。シアトル(ピュージェット湾沿岸)はサンフランシスコよりも横浜からの距離(航海日数)が短いため、1883年以降よりノーザン・パシフィック鉄道(NP)や後を追うグレート・ノーザン鉄道(GN)等が競い、船会社と緊密に連携して海陸一貫輸送を開始した。1887年には海上輸送日数の更に短いバンクーバーからもカナディアン・パシフィック鉄道(CPR)が時分を争う輸送競争に参入し、やがて所要時間をバンクーバー発で60数時間まで短縮した。1880年代には北米で月間20本程度の専用列車が運行された。北太平洋横断航路の船会社としては、当初はパシフィック・メール汽船会社、オクシデンタル&オリエンタル汽船会社が、後にカナディアン・パシフィック鉄道(船舶部門)の3社が競い合った。1896年(明治29年)以降はシアトル航路の日本郵船、サンフランシスコ航路の東洋汽船に加え、シアトル航路の大阪商船などが参入した。新井領一郎 フレッシュアイペディアより)

  • 比羅夫丸

    比羅夫丸から見た日本郵船日本郵船

    津軽海峡を渡る航路は1873年(明治6年)2月、青森 - 函館間の青函航路および安渡(大湊) - 函館間航路が北海道開拓使によって開設された。同月、山口県下関の小田藤吉も青函航路に参入したが、ほどなく撤退した。1879年(明治12年)6月に至り、既に東京 - 函館間航路も運航していた郵便汽船三菱会社が北海道開拓使から青函航路を引き継いだ。しかしこれ以前より、郵便汽船三菱会社による日本の海運界独占が顕著となり、運賃が高騰、これに対抗する共同運輸会社が1882年(明治15年)7月設立され、青函航路にも参入した。しかし今度は両社とも採算度外視の無制限競争状態に陥ったため、共倒れを危惧した政府の意向で1885年(明治18年)9月、両社は合併し日本郵船会社を設立、同年10月1日より青函航路を継承し、政府による命令航路として毎日1往復の定期運航が確保された。比羅夫丸 フレッシュアイペディアより)

  • 壱岐丸

    壱岐丸から見た日本郵船日本郵船

    帝国鉄道庁による国営連絡船の青函航路への参入は1908年(明治41年)3月7日、日本初の蒸気タービン船比羅夫丸就航により開始され、同年4月4日からは姉妹船田村丸も就航した。これら両船はその高速性能を生かし、旅客輸送では先発競合の日本郵船を圧倒しつつ順調に業績を伸ばし、1910年(明治43年)1月には、冬季の入渠工事による減便回避のため、後に関釜航路に転傭された義勇艦うめが香丸を傭船契約し、通年2往復運航を確保した。1910年(明治43年)3月の日本郵船撤退以降は、それまで郵船が輸送していた貨物の転移を受け貨物輸送量も急増し、以後、客貨両方の輸送量増加は著しく、これを傭船の増強でどうにか対応していた。しかし、第一次世界大戦勃発以降は大戦景気と世界的な船腹不足による海運貨物の鉄道転移、傭船不足と傭船料高騰もあり、1917年(大正6年)度からの一時期は、青森・函館両港に滞貨の山を築く混乱状態に陥り、旅客輸送も極めて逼迫していた。このため、当座の対策として、鉄道院は1918年(大正7年)6月と10月に自前の木造貨物船白神丸と竜飛丸を建造し、更に1919年(大正8年)4月には鉄道院の木造石炭運搬船第一快運丸、第二快運丸を貨物船に転用して青函航路に就航させ、貨物輸送力増強を図り、1919年(大正8年)7月以降は貨物用傭船を全て解傭し、以後、いずれも客貨船として使用できる弘済丸、敦賀丸、伏木丸の3隻が傭船されていた。壱岐丸 フレッシュアイペディアより)

  • 飛鳥II

    飛鳥IIから見た日本郵船日本郵船

    飛鳥II(あすかツー)は、日本郵船の子会社、郵船クルーズが所有・運航している外航クルーズ客船。2006年2月に売却された「飛鳥」の後継船にあたる。飛鳥II フレッシュアイペディアより)

  • 有吉義弥

    有吉義弥から見た日本郵船日本郵船

    有吉 義弥(ありよし よしや、1901年11月4日 - 1984年9月7日)は、昭和期の日本の実業家。日本郵船の元代表。有吉義弥 フレッシュアイペディアより)

  • 茂在寅男

    茂在寅男から見た日本郵船日本郵船

    日本で初めてヨットを製作する。東京高等商船学校(現・東京海洋大学)航海科卒業後、日本郵船を経て、鳥羽商船学校、東京高等商船学校(東京商船大学を含む)、横浜国立大学、東京大学、東海大学で教鞭をとりながら、先端研究分野である船舶のオートパイロットを視野にいれた航海計器の近代航海術の技術開発研究を行う。『解説レーダ』、『レーダの理論と実際』(共著)、『解説デッカ』の一連の技術書を記し電波航法技術の発展に貢献した。茂在寅男 フレッシュアイペディアより)

  • キングフィッシュ (潜水艦)

    キングフィッシュ (潜水艦)から見た日本郵船日本郵船

    9月9日、キングフィッシュは最初の哨戒で日本近海に向かった。担当海域に到着後パトロールを開始し、9月25日にはの潮岬沖で3隻からなる輸送船団を発見、最後尾の輸送船に対して魚雷を3本を発射し、うち一発を命中させたと判断されたが、攻撃そのものは輸送船康寧丸(中村汽船、2,345トン)に魚雷が向かったものの回避された。キングフィッシュは以後18時間にわたり爆雷攻撃を受けたため被害状況は確認できなかったが、作戦海域からの離脱に首尾よく成功した。10月1日午後、キングフィッシュはの和歌山県市江崎沖で、東京に向けて航行中の輸送船陽明丸(日本郵船、2,861トン)を発見。発射した3本の魚雷のうち、2本は陽明丸の船底を通過したが、別の1本が陽明丸に命中し瞬時に沈没。逸れた残りの魚雷2本は、日置町伊古木海岸に漂着した。爆雷攻撃の届かぬ深度に潜航したキングフィッシュは、魚雷を再装填した後、航路の哨戒を継続した。4日後の10月5日未明3時には室戸岬沖で輸送船立神丸を発見し、浮上攻撃で魚雷を3本発射したが命中しなかった。その後二週間は接敵しても攻撃圏内に目標が入ってこない日々が続いたが、10月23日になって再び市江崎沖で目標を発見する。キンクフィッシュはの地点で輸送船団を発見して魚雷を2本発射し、特設砲艦盛京丸(朝鮮郵船、2,608トン)に魚雷を命中させ、これを撃沈した。翌10月24日未明、八丈島の方向に針路を向けていたキングフィッシュは、折からの悪天候の中で厳島丸級と思しきタンカーを発見して魚雷を2本発射し、1本は当たったのではないかと判断された。11月3日、キングフィッシュは55日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。改装が施された。キングフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • タニー (潜水艦)

    タニー (潜水艦)から見た日本郵船日本郵船

    タニーの最初の哨戒は1943年1月12日で、東シナ海に向かった。哨戒海域へ航行中、ほぼ一週間におよぶ荒天でタニーの航行は困難を極めた。南西諸島に接近すると、多数の艦影を発見するようになる。1月25日にはサンパンやトロール船を頻繁に発見し、これらからの発見を回避するためタニーはしばしば潜航した。1月26日の早暁、タニーは400トン級トロール船を改造した特設監視艇を発見。半日も追跡した後夕刻に浮上し、浮上砲戦でこれを撃沈しようとしたが、間もなく日が暮れて目標を確認することが困難となり、攻撃は32発撃ったところで打ち切られた。3日後、タニーは台湾海峡とその周辺に移動する。1月31日にはの地点で、高雄港に入りつつあった輸送船西寧丸(大連汽船、4,913トン)に向けて魚雷を2本を発射したが回避された。その後は香港沖に移動して哨戒を続けた。2月2日、タニーは香港沖でレーダーにより探知したタンカーに対して四度にわたって魚雷を3本ずつ3回と1本の計10本発射したが、すべて命中しなかった。翌2月3日には、これもレーダーで探知した「大きな目標」に対して魚雷を3本発射し、うち2本が命中するのを確認した。2月3日の攻撃では、の地点で陸軍船第一新東丸(澤山汽船、1,927トン)に損傷を与えたとした。2月4日には汕頭沖に移動し、病院船を発見した。汕頭沖は海底の形状が潜航して行動するには不向きであり、また海上ではジャンクばかりが目に付いた。この日、タニーはの地点で輸送船辰和丸(辰馬合資、6,335トン)を撃破した。2月8日20時ごろ、タニーはの地点で輸送船楠山丸(山下汽船、5,307トン)を発見し、魚雷を2本ずつ2回と3本の計7本発射して楠山丸に2本を命中させ、楠山丸は「損害軽微」と報じられたものの沈没した。翌2月9日にもの地点で海軍徴傭船鎌倉丸(日本郵船、17,498トン)に対して魚雷を2本発射し爆発を記録したが、実際にはすんでのところで回避されていた。2月11日に哨戒海域を後にしたタニーは、2月15日にの地点で100トン級トロール船を発見し、浮上砲戦で撃沈した。2月20日にミッドウェー島に到着。2月24日、タニーは43日間の行動を終えて真珠湾に帰投、潜水母艦 (USS Sperry, AS-12) による整備を受けた。タニー (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 青函連絡船

    青函連絡船から見た日本郵船日本郵船

    開設当初は連絡船着岸岸壁はなく、連絡船は数100m沖に錨泊し、小蒸気船やハシケが、後に建設される、最も南側に位置した車載客船・車両渡船岸壁(建設当初は第2岸壁、戦後は第1岸と呼ばれた)の向かい側付近にあった第2船入澗に着岸していた。ここは青森駅至近のため、1898年(明治31年)、当時青函航路を経営していた日本郵船と、青森に至る鉄道を経営していた日本鉄道が共同で築造したもので、国鉄連絡船開設当初も日本郵船と共用で、国鉄は西と南側の岸壁を使用した。しかしここだけでは狭隘なため、1908年(明治41年)5月、青森駅駅裏に貨物専用のハシケ岸壁として第1船入澗も完成させ、ハシケ岸壁の客貨分離を行った。1910年(明治43年)には第2船入澗南側に食堂併設の連絡船待合所を設けた。1914年(大正3年)12月開始された鉄道車両ハシケ車運丸による車両航送用の桟橋は、この第1船入澗内に木製門構えに鋼製桁を用いて建設された。1921年(大正10年)1月、西防波堤の一部完成を受け、防波堤内に係船浮標を設置し、比羅夫丸型で運航される客便の1便・2便に限りここに係留した。1923年(大正12年)12月15日からは、一部完成した車載客船・車両渡船岸壁(南側から2番目、建設当初は第1岸壁、戦後の第2岸壁と呼ばれた)を先行使用する形でようやく直接着岸可能となった。青函連絡船 フレッシュアイペディアより)

  • 飛鳥 (旅客船)

    飛鳥 (旅客船)から見た日本郵船日本郵船

    飛鳥(あすか)は、日本郵船の子会社の郵船クルーズが所有・運航していた外航クルーズ客船である。飛鳥 (旅客船) フレッシュアイペディアより)

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