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矢野俊一 (日本郵船)から見た日本郵船
京都大学経済学部経営学科卒業後、日本郵船に入社。主にコンテナ船部門に携わる。海外勤務はニューヨーク支店・シンガポール法人(社長)。本社復帰後は定航マネージメントグループ長などを経て、2000年6月に取締役定航調整グループ長、2001年4月に取締役、2002年6月に常務取締役、2004年4月に取締役。同年6月に郵船航空サービスに異動し、代表取締役副社長、2005年6月に取締役社長執行役員。2011年4月に代表取締役会長、2013年4月に取締役相談役、同年6月に現職。(矢野俊一 (日本郵船) フレッシュアイペディアより)
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国際汽船から見た日本郵船
日本の海運業界は明治末期および大正初期までに、おおむね二つの勢力が形成されていた。一つは日本郵船や大阪商船、東洋汽船など、政府などから命令航路を受命して運航し、またいくつかの定期航路を抱える規模の大きな会社で、「社船」と呼ばれていた。もう一つは、大雑把に言えば「それ以外」の、主に不定期航路を主体にした海運会社で、「社外船」と言われるものがこれである。二つの勢力の差は歴然としており、また社外船は乱立気味で、日本近海の海運市況を押し下げる要因になっていた。そこで、社外船が一大合同して大規模な会社を設立し、海外に打って出て社船と肩を並べようとする動きが明治中ごろからあり、1906年(明治39年)ごろに最高潮に達したが、経済不況などによりいったんは挫折した。(国際汽船 フレッシュアイペディアより)
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ANA&JPエクスプレスから見た日本郵船
かつてANAは日本貨物航空と資本関係があり、業務提携を行っていたが、2005年8月に日本郵船が買収したことに伴い関係は解消されていた。そのためANAは2005年10月に新たに航空貨物会社を設立することを、国際郵便分野の事業拡大を狙っていた日本郵政公社(現・日本郵政株式会社)と合意し、2006年2月に「ANA&JPエクスプレス」として設立された。2006年8月1日にエアージャパンから航空貨物事業が移管された。日本とアジア地域のほかシカゴへの航空貨物便を運航していた。(ANA&JPエクスプレス フレッシュアイペディアより)
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プレジデント・ウィルソンから見た日本郵船
プレジデント・ウィルソンは姉妹船のプレジデント・クリーブランド、プレジデント・フーヴァーとともに日本-アメリカ間を結ぶ太平洋航路の客船として運行された。元は輸送艦であったため速力は21ノットと高く、太平洋を二週間で横断することが可能であった。太平洋航路には日本郵船の氷川丸も就航していたが、その性能の高さや日本側の財政事情などもあり横浜からマニラ・ホノルル経由でサンフランシスコ、ロサンゼルスを結ぶ航路は事実上この二隻によって独占されていた。こうした事情から1950年代から1960年代にかけて日本ではウィルソンとクリーブランドの二隻の知名度は非常に高く、交通公社の時刻表に両船の運行予定が記載されるなど、馴染み深い存在であった。(プレジデント・ウィルソン フレッシュアイペディアより)
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愛宕丸 (1924年)から見た日本郵船
愛宕丸(あたごまる)は、日本郵船が保有した同社初のディーゼル推進貨物船である。技術を参照する見地からイギリスのリスゴーズ社に発注して建造、1924年に竣工した。太平洋戦争中に石油タンカーへ改装されたが、1944年11月にボルネオ島でアメリカ軍機の空襲を受けて擱座放棄された。(愛宕丸 (1924年) フレッシュアイペディアより)