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  • 極東丸

    極東丸から見た日本郵船日本郵船

    「旭東丸」と改名後も引き続き第一航空艦隊への補給に従事。セイロン沖海戦およびミッドウェー海戦でも補給部隊を率いて参加。1943年(昭和18年)以降は、南方占領地域からの石油還送にあたる。昭和18年8月28日、「旭東丸」は特設運送船「南海丸」(大阪商船、8,416トン)と臨時船団を編成して昭南(シンガポール)を出港。途中寄港した馬公で陸軍輸送船「安芸丸」(日本郵船、11,409トン)と駆逐艦「汐風」を船団に加え、9月7日に六連沖に到着した。10月12日に六連沖を出港したヒ13船団にも「南海丸」などとともに加わり、三亜を経由してパラワン島東方を迂回しつつ、10月30日に昭南に到着。12月に入ると、トラック諸島への重油輸送にあたる。12月2日、「旭東丸」は2隻の特設運送船(給油)、「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)と「照川丸」(五洋商船、6,432トン)とともに昭南を出港し、12月15日にトラックに到着。12月25日付で連合艦隊付属となり、トラックでの補給を終えて「日栄丸」とともにスラバヤへと向かう。1944年(昭和19年)1月6日にスラバヤに到着の後、1月16日には再度「日栄丸」とク702船団を構成してバリクパパンを出港し、トラックへの重油輸送を行う。「日栄丸」、「国洋丸」(国洋汽船、10,026トン)とともにバリクパパンに下がった後、特設運送船(給油)「日章丸」(昭和タンカー、10,526トン)を加えてパラオ行きの船団を編成し、2月21日に駆逐艦「島風」の護衛の下、バリクパパンを出港する。しかし、2月25日未明にのミンダナオ島サンアウグスティン岬の南南西55キロ地点に差し掛かったところで、アメリカ潜水艦「ホー」 (USS Hoe, SS-258) の攻撃を受ける。「ホー」は三度にわたって攻撃を行い、「日章丸」は沈没。「旭東丸」も損傷して昭南に下がり、6月18日まで修理が行われた。7月2日、試運転を終えた「旭東丸」は軽巡洋艦「北上」および駆逐艦「藤波」、「玉波」の護衛を受けてマニラに向かう。7月7日未明、護衛の「玉波」が対潜掃討中にアメリカ潜水艦「ミンゴ」 (USS Mingo, SS-261) の攻撃により沈没したが、「旭東丸」は無事だった。その日の夕刻にマニラに入港し、「藤波」、「響」、「夕凪」の三駆逐艦に重油を補給する。7月10日、特務艦「速吸」と船団を組んで「藤波」、「響」、「夕凪」の護衛によりマニラを出港し、サンベルナルジノ海峡および紀淡海峡経由で7月17日に呉に帰投した。この時点での軍隊区分は第一機動艦隊(小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)付属であったが、8月1日付で連合艦隊付属に戻った。また、「速吸」、「旭東丸」、「夕凪」と特設運送船(給油)「あづさ丸」(石原汽船、10,022トン)で「速吸船団」を編成し、近く門司を出港するヒ71船団に加入して南下するよう命じられた。極東丸 フレッシュアイペディアより)

  • レイトン (潜水艦)

    レイトン (潜水艦)から見た日本郵船日本郵船

    11月13日、レイトンは最初の哨戒でビスマルク諸島、ソロモン諸島およびニューギニア方面に向かった。11月20日にツラギ島に寄港。11月26日午後、レイトンはのの西側の航行中に、2隻の輸送船を中心に2隻の駆逐艦と思しき艦艇と二式水上戦闘機の護衛がついた輸送船団を発見した。レイトンは船団を追跡しその夜に魚雷を5本発射し、特設運送船(給兵)尾上丸(日本郵船、6,667トン)に魚雷を命中させてこれを撃沈した。しかし、護衛艦の反撃に遭い別の輸送船に4度も接近して攻撃しようとしたが、ついに成功しなかった。11月28日、レイトンはのニューギニアの北方500キロ地点でパラオからラバウルに向かうオ306船団を発見し、魚雷を6本発射。10時9分、魚雷は陸軍輸送船百合丸(大阪商船、6,787トン)に3本が命中して百合丸を轟沈させ、これとほぼ同じ時刻に陸軍輸送船北光丸(山下汽船、4,928トン)の船尾に魚雷を命中させて撃沈した。3隻目の陸軍輸送船ころんびあ丸(三菱汽船、5,617トン)にも魚雷が向かったが回避された。レイトンはオ306船団になおも食いつき、魚雷を三度にわたって4本ずつ、計12本発射したが、すべて回避された。護衛艦の激しい爆雷攻撃を受けたレイトンは深深度潜航で退避したのち、夜になって再び船団を追撃した。しかし、この時点でレイトンに残された魚雷はわずかであったので支援を求め、近くにいたガトー (USS Gato, SS-212) がこれに応じ、攻撃に加わった。しかし、依然として護衛艦の警戒が厳しかったので、レイトンは護衛艦を引きつける役を自ら引き受け、レイトンは第39号駆潜艇と浮上砲戦を交わした。レイトンが護衛艦を誘き出したことによって、ガトーは隙を突いて11月30日にころんびあ丸を撃沈することができた。12月6日、レイトンは24日間の行動を終えてミルン湾に帰投。潜水母艦 (USS Fulton, AS-11) による修理を受けた。レイトン (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 大鷹 (空母)

    大鷹 (空母)から見た日本郵船日本郵船

    「大鷹」の前身である「春日丸」は、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で日本郵船が建造した豪華客船「新田丸」級三姉妹船の第3船であった。新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャル“NYK”に因んでそれぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた。大鷹 (空母) フレッシュアイペディアより)

  • 高島丸

    高島丸から見た日本郵船日本郵船

    高島丸(たかしままる)は、日本郵船が保有した砕氷貨客船。1942年に樺太航路用に建造された日本で数少ない本格的な砕氷商船で、日本の近海砕氷船としては2011年現在でも史上最大級である。太平洋戦争中に日本陸軍に徴用され、千島列島方面の輸送任務に使用された。1944年6月に本土引揚げの民間人を輸送していたところを、アメリカ海軍潜水艦により撃沈された。高島丸 フレッシュアイペディアより)

  • サンフィッシュ (潜水艦)

    サンフィッシュ (潜水艦)から見た日本郵船日本郵船

    2月4日、サンフィッシュは2回目の哨戒で東シナ海に向かった。3月7日夜、サンフィッシュはの地点で貨客船丹後丸(日本郵船、6,893トン)に対して浮上攻撃により魚雷を計7本発射し、合計3本の魚雷が命中した音が聞こえ、サンフィッシュは爆発を確認した。しかし、丹後丸は魚雷を回避しており、反撃して退避していった。サンフィッシュは、その後の2日間対潜攻撃を受け、海中でじっとしてる他はなかったが、幸いにも重大な損害からは逃れることができた。3月9日夕刻には、の地点で高雄に向かっていた海軍徴傭船浅間丸(日本郵船、16,947トン)を発見し、魚雷を4本発射して3つの爆発を確認した。ところが、この攻撃もまた魚雷は命中しておらず、攻撃後は護衛の駆逐艦峯風の制圧を受けた。3月13日夜23時過ぎ、サンフィッシュはの種子島近海で輸送船興生丸(岡田商船、3,262トン)を発見し、魚雷を3本発射。1本が命中し、興生丸は被害甚大のため宝島に座礁して果てた。4月3日、サンフィッシュは58日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。サンフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 郵船ビルディング

    郵船ビルディングから見た日本郵船日本郵船

    日本郵船会社により新社屋として計画され、同社は用地として1917年(大正6年)10月、1,410.45坪の敷地を三菱合資会社より賃借しその建設を図った。郵船ビルディング フレッシュアイペディアより)

  • 高島線

    高島線から見た日本郵船日本郵船

    ブラントンは鉄道の開通を受けて、港の埠頭まで鉄道を引き込むことを提案するが、これは実現しなかった。一方、やはりお雇い外国人のヘンリー・S・パーマーもまたこの時期に政府の依頼で横浜港の修築計画を進めており、これにより西波止場から沖に突き出した大桟橋が建設された。計画では、この大桟橋と横浜駅を結ぶ臨港鉄道が建設されることになっていたが、鉄道予定地に当たっていた日本郵船や回漕業者が艀の荷揚げ地を線路で分断されることを恐れて反対し、結局税関構内と桟橋を結ぶ線路が敷設されただけで新橋 - 横浜間の一般鉄道網へは接続されなかった。この桟橋内の路線は4線(後に5線)が並列で敷かれており、合計150両の貨車が貨物の搬出入に当たっていた。しかし、旅客用の波止場であったこともあり、後に廃止された。高島線 フレッシュアイペディアより)

  • 関釜連絡船

    関釜連絡船から見た日本郵船日本郵船

    博愛丸 : 日本赤十字社病院船(平時は日本郵船上海航路)。1918年(大正7年)4月-1922年(大正11年)3月。関釜連絡船 フレッシュアイペディアより)

  • 浅間丸

    浅間丸から見た日本郵船日本郵船

    浅間丸(淺間丸、あさままる)は日本の日本郵船が所有していた貨客船。その豪華さから「太平洋の女王」と呼ばれることもあった。浅間丸 フレッシュアイペディアより)

  • 土井晩翠

    土井晩翠から見た日本郵船日本郵船

    すると東京音楽学校(現・東京芸術大学)から中学唱歌用の歌詞を委嘱され、「荒城月」(のちの「荒城の月」)を作詩。同校がこの詩につける曲を公募し、滝廉太郎の曲が採用され、1901年(明治34年)に「荒城の月」として発表された。「荒城の月」の作詩者・作曲者という間柄ながら、両者の間に同校が介在したため、晩翠と滝はたった一度だけしか会ったことがない。それは晩翠が欧州遊学中の1902年(明治35年)8月である。前年4月にライプツィヒ音楽院に留学した滝廉太郎が肺結核を患ったため帰国することになり、ベルギーのアントワープから日本郵船の大型客船「若狭丸」に乗った。同船がイギリス・ロンドン郊外のティルベリー(テムズ川河口港)に寄港した際、晩翠は姉崎正治と共に滝を見舞い、両者は最初で最後の対面をした。土井晩翠 フレッシュアイペディアより)

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