721件中 31 - 40件表示
  • 勝鬨丸

    勝鬨丸から見た日本郵船日本郵船

    上海での仮修理の後、プレジデント・ハリソンは勝鬨丸と命名され、3月5日に上海で日本郵船に引き渡された。また、この時民需用が建前の船舶運営会使用船となり、軍の徴用を受けないまま軍事輸送に従事する陸軍配当船に指定され、陸軍配当船番号5025番が付与された。引き渡されたとき、勝鬨丸にはいまだ旧来の乗組員が残っており、郵船側の乗組員に対して協力を惜しまなかったが、旧来の乗組員は後日、日本海軍の将兵に連行されていった。その後、勝鬨丸は日本に回航され、大阪鐵工所桜島工場で改装工事が行われた。この改装で三等船室が新たに設けられた。7月28日工事が完了し、翌29日から台湾航路に就航した。勝鬨丸の台湾航路就航は華々しく報じられ、米、砂糖を満載して清水港に帰港した際には、見物人が勝鬨丸見たさで清水港に押し寄せたほどだった。勝鬨丸 フレッシュアイペディアより)

  • 極東丸

    極東丸から見た日本郵船日本郵船

    「旭東丸」と改名後も引き続き第一航空艦隊への補給に従事。セイロン沖海戦およびミッドウェー海戦でも補給部隊を率いて参加。1943年(昭和18年)以降は、南方占領地域からの石油還送にあたる。昭和18年8月28日、「旭東丸」は特設運送船「南海丸」(大阪商船、8,416トン)と臨時船団を編成して昭南(シンガポール)を出港。途中寄港した馬公で陸軍輸送船「安芸丸」(日本郵船、11,409トン)と駆逐艦「汐風」を船団に加え、9月7日に六連沖に到着した。10月12日に六連沖を出港したヒ13船団にも「南海丸」などとともに加わり、三亜を経由してパラワン島東方を迂回しつつ、10月30日に昭南に到着。12月に入ると、トラック諸島への重油輸送にあたる。12月2日、「旭東丸」は2隻の特設運送船(給油)、「日栄丸」(日東汽船、10,020トン)と「照川丸」(五洋商船、6,432トン)とともに昭南を出港し、12月15日にトラックに到着。12月25日付で連合艦隊付属となり、トラックでの補給を終えて「日栄丸」とともにスラバヤへと向かう。1944年(昭和19年)1月6日にスラバヤに到着の後、1月16日には再度「日栄丸」とク702船団を構成してバリクパパンを出港し、トラックへの重油輸送を行う。「日栄丸」、「国洋丸」(国洋汽船、10,026トン)とともにバリクパパンに下がった後、特設運送船(給油)「日章丸」(昭和タンカー、10,526トン)を加えてパラオ行きの船団を編成し、2月21日に駆逐艦「島風」の護衛の下、バリクパパンを出港する。しかし、2月25日未明にのミンダナオ島サンアウグスティン岬の南南西55キロ地点に差し掛かったところで、アメリカ潜水艦「ホー」 (USS Hoe, SS-258) の攻撃を受ける。「ホー」は三度にわたって攻撃を行い、「日章丸」は沈没。「旭東丸」も損傷して昭南に下がり、6月18日まで修理が行われた。7月2日、試運転を終えた「旭東丸」は軽巡洋艦「北上」および駆逐艦「藤波」、「玉波」の護衛を受けてマニラに向かう。7月7日未明、護衛の「玉波」が対潜掃討中にアメリカ潜水艦「ミンゴ」 (USS Mingo, SS-261) の攻撃により沈没したが、「旭東丸」は無事だった。その日の夕刻にマニラに入港し、「藤波」、「響」、「夕凪」の三駆逐艦に重油を補給する。7月10日、特務艦「速吸」と船団を組んで「藤波」、「響」、「夕凪」の護衛によりマニラを出港し、サンベルナルジノ海峡および紀淡海峡経由で7月17日に呉に帰投した。この時点での軍隊区分は第一機動艦隊(小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)付属であったが、8月1日付で連合艦隊付属に戻った。また、「速吸」、「旭東丸」、「夕凪」と特設運送船(給油)「あづさ丸」(石原汽船、10,022トン)で「速吸船団」を編成し、近く門司を出港するヒ71船団に加入して南下するよう命じられた。極東丸 フレッシュアイペディアより)

  • ジャック (潜水艦)

    ジャック (潜水艦)から見た日本郵船日本郵船

    1944年1月16日、ジャックは3回目の哨戒で南シナ海に向かった。この海域はさすがに重要船団や重要船が多かった。2月19日3時58分ごろ、ジャックのレーダーがの地点で複数の目標を探知した。よく確認すると、それは日本に向けて北上するヒ40船団で、5隻のタンカーと3隻ぐらいの護衛艦がいると判断された。ジャックはヒ40船団に接近しつつ、相手の隊列が二列縦隊であることを確認し、よいポジションを占めるべく行動した。4時42分、ジャックは射点に就き、2隻の目標に向けて魚雷を3本ずつ計6本発射。うち2本がタンカー南栄丸(日東汽船、5,019トン)に命中し大爆発を生じさせ撃沈し、もう2本はジャックからは死角になっていて見えなかったが、別のタンカー国栄丸(日東汽船、5,155トン)に命中し撃沈した。護衛の海防艦占守がこちらに向かう気配を見せたためジャックは避退し、第二撃をかけるべく準備を急いだ。やがて日が昇りつつある頃、船団の姿がはっきり見えるようになった。ジャックは昼に浮上し、速力を上げて250キロもの距離を移動して船団の前方で潜航し、待ち伏せをした。午後、ジャックは船団を再度発見し、それから1時間経った18時49分、ジャックはの地点で2隻のタンカーに対して魚雷を4本発射。魚雷はタンカー一洋丸(浅野物産、5,106トン)と日輪丸(昭和タンカー、5,163トン)に命中し2隻とも沈没していった。残るは特設運送船(給油)南邦丸(飯野海運、10,033トン)と海軍徴傭船浅間丸(日本郵船、16,975トン)だけとなった。ジャックは1時間後に浮上し20時52分にの地点で魚雷を3本発射したが命中せず、22時33分にもの地点で魚雷を4本発射し、3つの命中があったとした。ジャックは17本の魚雷をもって一つの船団を事実上壊滅状態に追い込んだ。3月1日未明にはの地点で1隻のタンカーと3隻の輸送船、2隻の護衛艦からなる輸送船団を探知し、2番目の目標に対して魚雷を3本発射して2本の命中を確認。続いて2隻の輸送船に対して魚雷を4本発射し、これも2つの命中を確認した。この攻撃で魚雷を撃ちつくしたので、ジャックは哨戒を打ち切ることとした。3月13日、ジャックは51日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。ジャック (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 株式会社 (日本)

    株式会社 (日本)から見た日本郵船日本郵船

    日本郵船 - 1893年(明治26年)、日本で最初の一般的な会社法規である商法に基づき設立された株式会社。株式会社 (日本) フレッシュアイペディアより)

  • 日枝丸

    日枝丸から見た日本郵船日本郵船

    日枝丸(ひえまる)は、かつて日本郵船が保有していた貨客船である。氷川丸級の2番船として建造された。船名は日枝神社(東京都千代田区)に依る。日枝丸 フレッシュアイペディアより)

  • 磯野計

    磯野計から見た日本郵船日本郵船

    事業への理解と支援を求めて1879年に共存同衆に入会し、ここで会員の豊川良平と面識を得た。豊川からは高い評価を受け、増島らと共に郵便汽船三菱会社(現・日本郵船)の給費留学生に選ばれて1880年(明治13年)からイギリスに留学した。計は回船仲立業者のノリス&ジョイナー商会で実務に就き、複式簿記などの知識を身につけている。なお、ここで商業を選んだのは津山藩で学んだ石門心学も影響したと考えられている。1884年(明治17年)に留学を終えて三菱の新造した横浜丸の事務長となり、同船に乗って帰国した。帰国後は代言人を辞めて郵便汽船三菱会社に入り、神戸港で荷受所の現場監督に就いている。磯野計 フレッシュアイペディアより)

  • ブルーフィッシュ (潜水艦)

    ブルーフィッシュ (潜水艦)から見た日本郵船日本郵船

    2月13日、ブルーフィッシュは4回目の哨戒で南シナ海に向かった。日付が3月3日になってすぐ、ブルーフィッシュのレーダーは17,500ヤード(約16キロ)先に目標を探知する。間合いを取って追跡を行い、明け方には先頭船と二番船に対して魚雷を3本ずつ計6本発射し、反転し三番船に対して艦尾発射管から魚雷を4本発射するも、全て外れた。この目標はヒ47船団で、魚雷は特設運送船能代丸(日本郵船、7,189トン)に向かったが回避された。一度はヒ74船団との接触が途絶えるが、翌3月4日未明に再び発見。前日同様に接敵し、明け方にの地点で艦尾発射管から魚雷を3本発射。魚雷は特設運送船(給油)大峯山丸(三井船舶、10,536トン)に2本から3本命中し、大峯山丸はわずかに船首を海面上に突き出した状態で沈没した。攻撃後は哨戒の傍らで南沙諸島の偵察も行う。3月20日にはの地点で日本潜水艦を発見するが、攻撃の機会がなかった。3月28日夜、ブルーフィッシュはの地点で「沖島型敷設艦」を発見し、の地点に至った所で、艦首発射管から魚雷を4本と、最後に艦尾発射管に残った魚雷を1本発射したが、目標が針路を変えたため命中しなかった。4月12日、ブルーフィッシュは58日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。ブルーフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • スペードフィッシュ (潜水艦)

    スペードフィッシュ (潜水艦)から見た日本郵船日本郵船

    7月23日、スペードフィッシュは最初の哨戒でピクーダ (USS Picuda, SS-382) およびレッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) とウルフパックを構成しルソン海峡方面に向かった。8月19日、スペードフィッシュはルソン島北西海岸沖合いのフィリピン海域で哨戒中、マニラに向かうヒ71船団を発見。ヒ71船団は2日前の8月17日から他の潜水艦の猛攻により、ここまで空母大鷹と貨客船帝亜丸(帝国船舶、元フランス船アラミス/日本郵船委託、17,537トン)がラッシャー (USS Rasher, SS-269) に撃沈されていた。スペードフィッシュはラッシャーが帝亜丸を撃沈した後に攻撃し、4時30分、の地点で船団と離れて単独航行中の陸軍特殊船玉津丸(大阪商船、9,590トン)に対して魚雷を2本発射。魚雷は2本とも玉津丸の右舷に命中し、玉津丸は10分で沈没。この後、ブルーフィッシュ (USS Bluefish, SS-222) が給油艦速吸を撃沈し、タンカー帝洋丸(日東汽船、9,849トン)もまた沈没。ヒ71船団は玉津丸乗船中の第26師団将兵のほとんどが戦死するなど、手痛い損害を被った。3日後の8月22日、スペードフィッシュはバブヤン海峡を南下しルソン島北部海岸沿いに接岸航行中のタマ24A 船団を発見し追跡、接近した上で12時10分にタンカー第二八紘丸(日本油槽船、10,022トン)に対して魚雷を2本発射。船首と船体中央に魚雷の命中を受けた第二八紘丸は、バサレン湾に座礁した。この攻撃では、駆逐艦に護衛されたもう1隻のタンカーに損傷を与えたとも判断された。翌日、スペードフィッシュは座礁中の第二八紘丸に止めを刺さんと接近し、護衛の駆逐艦夕凪をはねのけて魚雷を4本発射。しかし、魚雷は途中で沈没したりして命中しなかった。スペードフィッシュは爆雷攻撃を受けたが、大したことはなかった。第二八紘丸は、搭載の魚雷艇を後続船団に移した上で放棄され、護衛の夕凪はピクーダの攻撃で撃沈された。スペードフィッシュは手持ちの魚雷が3本だけになったので、一旦哨戒を中断し、補給のためサイパン島タナパグ港に向かい、8月29日に入港して補給後に哨戒を再開した。スペードフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)

  • 山脇康

    山脇康から見た日本郵船日本郵船

    愛知県半田市出身。1970年4月に名古屋大学経済学部を卒業し、日本郵船に入社。2006年に代表取締役副社長、2008年に副会長に就くなど重役を歴任した。日本郵船のスポンサー先であるFC東京の試合観戦に精力的で、スポンサー界隈の業界人による私設応援団において応援団長を担当。山脇康 フレッシュアイペディアより)

  • 寺島成信

    寺島成信から見た日本郵船日本郵船

    日本郵船では「同社創設の調査機関を主宰するに至つた」。近藤廉平社長とともに、パリ講和会議に民間船主代表として参加。寺島成信 フレッシュアイペディアより)

721件中 31 - 40件表示