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グレート・ノーザン鉄道から見た日本郵船
日本郵船とも提携し、シアトルから横浜・香港へ定期航路を就航したこともある(後に独占禁止法の影響で撤退)。シアトルは同社とグレート・ノーザン鉄道の連絡地点としての役割を務めたことから、「シアトルはグレート・ノーザン鉄道を父とし、日本郵船を母として発展を遂げた」と言われている。1970年代の私鉄業界の再編に伴い、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)、ノーザン・パシフィック鉄道(NP)、スポケーン・ポートランド・アンド・シアトル鉄道(SP&S)と合併し、バーリントン・ノーザン鉄道(BN)となったが、その後更にアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道(ATSF)と合併して現在のBNSF鉄道となり、大陸横断の貨物輸送事業などを担う鉄道会社として経営が続けられている。(グレート・ノーザン鉄道 フレッシュアイペディアより)
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ドラム (潜水艦)から見た日本郵船
ドラムの最初の哨戒は4月17日、日本近海への航行だった。5月1日23時20分、ドラムは御前崎沖の遠州灘で中型艦船に対して魚雷を2本発射し、1本が命中。続いて駆逐艦と思しき艦艇に対しても魚雷を1本発射したが命中せず、間を置いて魚雷を3本発射したが、これも命中しなかった。この「中型艦船」は水上機母艦瑞穂であり、瑞穂は翌2日4時16分に沈没した。瑞穂の沈没は、第二次世界大戦における日本海軍軍艦の喪失第一号であった。続く5月9日には、の潮岬近海で輸送船西寧丸(大連汽船、4,916トン)に対して魚雷を4本発射し、実際には1本も命中しなかったものの、ドラムは撃沈を報じた。5月13日には、の神子元島70度12海里の地点で、石炭を搭載して秦皇島から川崎に向かっていた輸送船昭南丸(拿捕船/川崎汽船委託、5,356トン)を撃沈。5月25日にも野島崎沖で室蘭に向かっていた輸送船喜多方丸(栗林商船、2,380トン)を撃沈した。5月28日にもの犬吠埼沖で特設巡洋艦粟田丸(日本郵船、7,397トン)に対して魚雷を5本発射したが、全て回避された。帰途にはミッドウェー海戦に参加し、ミッドウェー島のはるか西方で哨戒を行った。6月12日、ドラムは56日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。(ドラム (潜水艦) フレッシュアイペディアより)
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グルーパー (潜水艦)から見た日本郵船
グルーパーは最初の哨戒で、まずミッドウェー海戦に僚艦とともに参加。6月4日、グルーパーは炎上する日本空母2隻を目撃したが攻撃はできず、戦闘機による機銃掃射と170個以上の対潜爆雷による攻撃を受けた。翌5日には急降下爆撃機の攻撃を避けて潜航した。その後、ミッドウェー島に3日間停泊。補給後の6月12日、グルーパーは東シナ海に向かった。6月25日午前、グルーパーはの地点で特設運送船第二図南丸(日本水産、19,262トン)を発見し、魚雷を4本発射して撃破した。6月27日には氷川丸(日本郵船、11,622トン)クラスと思われる病院船を発見。その後は南西諸島および台湾近海で哨戒した。7月6日には、の地点で台湾航路の貨客船富士丸(日本郵船、9,138トン)に対して魚雷を二度にわたり6本発射し、1本が命中したと判断された。7月30日、グルーパーは56日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がロブ・ロイ・マクレガー少佐(アナポリス1929年組)に代わった。(グルーパー (潜水艦) フレッシュアイペディアより)
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サンフィッシュ (潜水艦)から見た日本郵船
2月4日、サンフィッシュは2回目の哨戒で東シナ海に向かった。3月7日夜、サンフィッシュはの地点で貨客船丹後丸(日本郵船、6,893トン)に対して浮上攻撃により魚雷を計7本発射し、合計3本の魚雷が命中した音が聞こえ、サンフィッシュは爆発を確認した。しかし、丹後丸は魚雷を回避しており、反撃して退避していった。サンフィッシュは、その後の2日間対潜攻撃を受け、海中でじっとしてる他はなかったが、幸いにも重大な損害からは逃れることができた。3月9日夕刻には、の地点で高雄に向かっていた海軍徴傭船浅間丸(日本郵船、16,947トン)を発見し、魚雷を4本発射して3つの爆発を確認した。ところが、この攻撃もまた魚雷は命中しておらず、攻撃後は護衛の駆逐艦峯風の制圧を受けた。3月13日夜23時過ぎ、サンフィッシュはの種子島近海で輸送船興生丸(岡田商船、3,262トン)を発見し、魚雷を3本発射。1本が命中し、興生丸は被害甚大のため宝島に座礁して果てた。4月3日、サンフィッシュは58日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。(サンフィッシュ (潜水艦) フレッシュアイペディアより)