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バタビア沖海戦から見た日本郵船
海戦自体は約2時間の戦闘で連合軍巡洋艦2隻撃沈、日本軍の損害軽微(白雪、春風、敷波小破)と日本海軍の一方的な勝利に終わったが、0135パンジャン島南方で日本軍輸送船団を直衛していた第二号掃海艇が突然右舷缶室に魚雷1本の直撃を受け、艦体切断したのち転覆した。戦死傷者約40名。0138に陸軍輸送船の佐倉丸(日本郵船、9,246トン)の左舷4番船倉に魚雷1本が命中、さらに0200頃に左舷機関室に魚雷1本が命中して佐倉丸は沈没した。0140に陸軍病院船の蓬莱丸(大阪商船、9,192トン)の左舷機関室に魚雷1本が命中し、横転着底した。また、陸軍輸送船の龍野丸(日本郵船、7,296トン)が魚雷を回避中に座礁するという損害が出た。第16軍司令官今村均中将座乗の陸軍特殊船(揚陸艦)龍城丸(神洲丸)にも魚雷が命中して、同艦は大破着底した。今村中将は海上へ投げ出され、漂流後0430に救助された。第16軍司令部首脳に被害はなかった。また揚陸作戦・攻略作戦全体に大きな影響はなかったものの、第16軍司令部は龍城丸沈没と無線機喪失による不便に堪えねばならなかった。今村中将は「極く強い電光をかがやかして湾内をかけめぐる2隻の高速魚雷艇」に撃沈されたと回想している(後述参照)。日本側は連合軍側の魚雷艇とした。(バタビア沖海戦 フレッシュアイペディアより)
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壱岐 (海防艦)から見た日本郵船
1943年(昭和18年)6月1日、壱岐は玉野造船所から呉に移動。10日、佐伯へ向け呉を出港。同日早朝、の宮崎県細島沖で、給油艦石廊が米潜ティノサ(USS Tinosa, SS-283)の雷撃を受けて損傷する。11日、壱岐は敷設艇怒和島と共に石廊に合流し、対潜掃討を行う。0900、潜水艦を探知して爆雷攻撃を行う。その後、パラオから横浜に向かっていたサイパン丸(日本郵船、5,533トン)他輸送船2隻と護衛の水雷艇鳩、敷設艇由利島、哨戒艇第31号哨戒艇からなるP607船団の護衛に怒和島と共に加わる。都井岬沖で湖南丸(大阪商船、2,627トン)、特設運送船南海丸(大阪商船、8,416トン)が船団に合流。壱岐は途中で船団から分離し、13日に佐伯に到着した。16日、佐伯を出港して対潜哨戒を行い、17日に佐伯に戻った。(壱岐 (海防艦) フレッシュアイペディアより)