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高島線から見た日本郵船
ブラントンは鉄道の開通を受けて、港の埠頭まで鉄道を引き込むことを提案するが、これは実現しなかった。一方、やはりお雇い外国人のヘンリー・S・パーマーもまたこの時期に政府の依頼で横浜港の修築計画を進めており、これにより西波止場から沖に突き出した大桟橋が建設された。計画では、この大桟橋と横浜駅を結ぶ臨港鉄道が建設されることになっていたが、鉄道予定地に当たっていた日本郵船や回漕業者が艀の荷揚げ地を線路で分断されることを恐れて反対し、結局税関構内と桟橋を結ぶ線路が敷設されただけで新橋 - 横浜間の一般鉄道網へは接続されなかった。この桟橋内の路線は4線(後に5線)が並列で敷かれており、合計150両の貨車が貨物の搬出入に当たっていた。しかし、旅客用の波止場であったこともあり、後に廃止された。(高島線 フレッシュアイペディアより)
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パーチー (潜水艦)から見た日本郵船
6月17日、パーチーは2回目の哨戒でハンマーヘッド (USS Hammerhead, SS-364)、スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280) とウルフパックを構成しルソン海峡方面に向かった。1週間後にの地点で特設監視艇を砲撃により撃沈。7月4日には日本海軍の巡洋艦および駆逐艦を発見したが、艦砲、爆雷による反撃を受けた。7月29日、パーチーはバタン諸島海域で南下するミ11船団を発見し、スティールヘッドとともに追跡。31日を迎えてからルソン島北部沿岸で攻撃を開始した。3時30分、パーチーはタンカー光栄丸(日東汽船、10,238トン)に魚雷を3本命中させて撃沈。別のタンカー第一小倉丸(日本油槽船、7,270トン)にも打撃を与えた。この時、ラメージは浮上を命じて水上戦で船団を引っ掻き回そうとした。浮上したパーチーは船団の1隻に体当たりされそうになったが、それでもスティールヘッドとともに吉野丸(日本郵船、8,990トン)に魚雷を命中させ、吉野丸は7分で沈没した。スティールヘッドはこれとは別に扶桑丸(大阪商船、8,196トン)を撃沈し、だかあ丸(日本郵船、7,169トン)に損傷を与えていた。パーチーは夜明けに新たな目標を発見し、5時14分に万光丸(日本郵船、4,471トン)を撃沈した。パーチーは8月1日にサイパン島に寄港し5日に出航。8月16日、パーチーは59日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。一連の戦闘行為が評価され、パーチーに殊勲部隊章が、ラメージに名誉勲章がそれぞれ授けられた。(パーチー (潜水艦) フレッシュアイペディアより)
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電 (吹雪型駆逐艦)から見た日本郵船
1943年(昭和18年)1月30日、電は北方部隊に編入され、挺身輸送部隊に属した。2月から3月中旬までは幌筵島周辺で行動し、2月20日には第一水雷戦隊旗艦の軽巡阿武隈(司令官森友一少将)とともに特設巡洋艦粟田丸(日本郵船、7,397トン)を護衛し、キスカ島への輸送作戦を成功させる。3月23日には、第五艦隊主力と共に特設巡洋艦浅香丸(日本郵船、7,398トン)と陸軍輸送船崎戸丸(日本郵船、9,245トン)を護衛して幌筵島を出撃してキスカ島に向かう。(電 (吹雪型駆逐艦) フレッシュアイペディアより)
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岩崎弥太郎から見た日本郵船
明治7年、台湾出兵で政府は軍事輸送を英米船会社に依頼したが局外中立を理由に拒否され、日本国郵便蒸汽船会社も軍事輸送の間に三菱に顧客を奪われることを恐れたため躊躇したため、三菱が引き受けた。政府は外国船13隻を購入し運航を三菱に委託した。明治8年、日本国郵便蒸汽船会社は解散に追い込まれた。横浜ー上海間に航路を開いたが、米国のパシフィック・メイル(PM)社(太平洋郵船)との価格競争に陥った。政府は有事の際の徴用を条件に三菱への特別助成を交付し、日本国郵便蒸汽船会社の船舶18隻が無償供与され、政府御用達の意味を込めて「郵便汽船三菱会社」と社名変更した。駅逓頭前島密はPM社営業権買取を主張し、三菱は買取に成功した。その後、英国P&O社が香港・上海・横浜・大阪・東京間に進出、新興三菱に反発する顧客を取り込んだが、三菱と政府は合同で保守したため、日本からは撤退した。彌太郎の依頼で福沢諭吉が推薦した荘田平五郎が入社し、会社規則で三井住友にない社長独裁を謳った。福沢門下生で三菱に入ったものは吉川泰二郎(日本郵船社長)、山本達雄(日銀総裁)、阿部泰蔵(明治生命創業)がいた。(岩崎弥太郎 フレッシュアイペディアより)