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星野仙一から見た西本幸雄
星野をオーナーの久万俊二郎に推薦したのは前任監督の野村克也だという。著書によると野村は任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神を再建できるとすれば、熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。星野もオーナーに直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した。球団社長の野崎勝義も著書の中で星野新監督誕生させたのは野村克也さんの直言がキーワードになったと著書に記している(星野仙一 フレッシュアイペディアより)
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星野仙一から見た西本聖
監督一年目1987年は2年連続5位のチームを2位にした。開幕投手は杉本正を星野は起用したが、近藤貞雄はこれに対して「開幕投手の指名は“今年のエースはお前だ。シーズンを通して頼りにしてるぞ”という監督の意思表示だ。とすれば小松しかいない。それが杉本だった。杉本もいい投手だが、シーズン通して頼れる投手ではない」と述べている 。杉本は2本本塁打打たれ負け投手。打線も西本聖に抑えられた。監督としてのは初勝利は巨人戦の3戦目(勝ち投手は小松)。この年は仁村徹は規定打席に達しレギュラーになった。同年6月11日、熊本・藤崎台県営野球場での対巨人戦で、宮下昌己がウォーレン・クロマティの背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。王に「我々が主役になってはダメだ」と諭されたが、「やられたらやり返すのが当たり前じゃないですか。」と言い返した。後年その際のことに触れ、拳を突き出した件については「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している。同年オフ大島康徳、平野謙、曽田康二を放出し、大宮龍男、田中富生、小野和幸を獲得した。巨人を自由契約となった仁村薫も獲得した。(星野仙一 フレッシュアイペディアより)
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星野仙一から見た田淵幸一
高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。大学は東京なら早稲田大学、大阪なら村山実の母校の関西大学と決めていたが、倉敷商の矢吹怗一監督から「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したという。野球部では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合に登板し23勝24敗、防御率1.91、199奪三振。度主将。2年生秋には対立教大学戦でノーヒットノーランを記録した。しかし田淵幸一・山本浩司・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学や、谷沢健一、荒川尭らを擁する早稲田大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。(星野仙一 フレッシュアイペディアより)
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星野仙一から見た埼玉西武ライオンズ
からは投手コーチ補佐を兼任。、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退を決意。引退理由としては体力の限界もあったが監督の近藤貞雄と確執も要因となりリーグ優勝祝勝会の時点ではコーチ就任が濃厚と言われていたがコーチとしても残る事も無くチームを離れ、11月21日のファン感謝デーで「長い間ありがとうございました。私はついに燃え尽きました」と挨拶した同年の日本シリーズでは出場はなくコーチ補佐として出場したが西武ライオンズに2勝4敗で敗れた。4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合となり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれている。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。星野は著書の中で「プロのピッチャーとしては200勝に到達できない二流の成績で終わったが、気持ちと気迫と気合いだけは誰にもひけをとらなかった思っている」と記している。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手の小田和正だった。(星野仙一 フレッシュアイペディアより)
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星野仙一から見た東京ヤクルトスワローズ
星野が3年生の時に、甲子園を目指して、東中国大会決勝まで進んだが、鳥取県の米子南高校に敗れ、甲子園出場は叶わなかった。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズに入る岡山東商・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の1年後輩にあたる。星野が卒業して松岡がエースとなった翌年も夏の県大会準決勝まで進んだが平松擁する岡山東商に日没引き分け再試合で敗れ、倉敷商は甲子園出場を逃している。当時広島東洋カープのエースだった池田英俊のピッチングフォームの分解写真を見て、自分のフォームを研究し、写真を通してではあるが高校時代の目標であり、恩師のような存在と記している。(星野仙一 フレッシュアイペディアより)