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永久の強訴から見た春日大社
その場しのぎの対応で法皇が実覚処分の要求を飲んだことから興福寺が激怒、天台座主・仁豪と法性寺座主・寛慶の流罪、祇園社を春日大社の末社にすること、実覚の配流停止といった3ヵ条を奏上として提出した。大衆の上洛を防ぐため、宇治に平正盛・平忠盛・源重時が、西坂本に源光国・藤原盛重が配備された。宇治において双方が対峙中にたまたま現れた鹿(鹿は春日大社明神の使として信仰されていた)を兵士が射ようとしたことから合戦となり、大衆側に多数の戦死者が出た。宇治に出動した正盛・忠盛・重時は検非違使だったが、検非違使別当・藤原宗忠の指示を介さず法皇の命令で派兵された。検非違使庁・諸衛府の形骸化、院北面の拡大を示す事件だった。(永久の強訴 フレッシュアイペディアより)
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水走季忠から見た春日大社
また、水走氏の祖である平岡連は中臣氏と同族であったことから、その中臣氏の末裔である藤原氏とも同族といえる。また、藤原氏は春日大社を氏社としていたが、枚岡神社は元春日とも呼ばれるように春日大社の前身ともいえる神社であったことから、藤原氏一門からも尊崇を受けていたことなどから藤原氏に接近した。また、武士団として平安時代後期に河内国を本拠に活動した河内源氏に対しても、源義家やその子で河内守となった源義忠などの家人となることで、武士団としての歩みも確かなものとしていった。なお、季忠の正室は源義忠の息女(源義家の養女)であったといい、その間に生まれた水走康忠以降の当主は、本姓をそれまでの「藤原氏」ではなく「源氏」を名乗っている。(水走季忠 フレッシュアイペディアより)
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氏社から見た春日大社
律令制が確立される8世紀に入ると、氏族制度そのものにも変化が及んでくる。畿内の豪族は都において官位を授かり、在地と切り離されていくようになる。また、蔭位制度などを通じた父系による出自集団化が進み、父系を通じて同じ祖先を有する者たちの守護神としての氏神及びそれを祀る氏社が成立するようになる。代表的なものとしては、藤原氏が自己の守護神である鹿島神・香取神を招き、なおかつ始祖にあたる天児屋命・比売神を合わせて祀った春日大社、橘氏が自己の始祖である橘三千代が崇拝していた神を一族の守護神として祀った梅宮大社、桓武天皇の外戚及び末裔の諸氏によって祀られた平野大社などが挙げられる。これらの諸氏はいずれも律令制のもとで成立あるいは発展した氏族であり、父系出自集団の形成が積極的に展開された氏族であった。(氏社 フレッシュアイペディアより)
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春日版から見た春日大社
春日版(かすがばん)とは、平安時代後期から鎌倉時代にかけて興福寺を中心とした奈良の寺院で印刷・出版された経典などの仏教書類のこと。広義においては、江戸時代までのものを含む場合もある。「春日」とは、藤原氏の氏社である春日大社のことで、同じく藤原氏の氏寺であった興福寺において完成した書物を春日大社に奉納したこと、あるいは刊記や巻末の識語に春日大社に祀られている春日明神への詞が記されていることに由来する(ただし、「春日版」という言葉は近代歴史学における呼称である)。なお、興福寺には2700枚以上の版木が残されており、重要文化財の指定を受けている。(春日版 フレッシュアイペディアより)
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大学別曹から見た春日社
大学別曹は公的な寄宿舎ではないため大学寮の支配が及ばず、各氏の氏長者の下で管理された。のちには大学寮の任官試験を経ずに官職に就く特権(年挙)が与えられた。また運営の財源として独自に荘園を領有したケースもある。その後、大学寮自体の停廃、氏という枠組み自体の解体とともに別曹も荒廃して実態を失い、いずれも形式上存在するのみとなった。ただし、形式のみといっても王氏(源氏など皇親への賜姓によって成立した諸氏)の別曹である奨学院については、院政期から、その別当を代々の源氏長者が務める例となり、同様に源氏長者の兼帯となった後院淳和院の別当とともに、源氏長者たることを象徴する称号となった。やがて「淳和奨学両院別当」という称号も作られ、武家である徳川将軍の称号のひとつとなる。また、摂関が興福寺や春日社などに氏長者としての立場から命令を下す際には、勧学院の別当を通じて文書(藤氏長者宣)を発給する慣例であった。(大学別曹 フレッシュアイペディアより)
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衆徒から見た春日社
摂関家とのつながりが強かった大和国の興福寺は鎌倉時代に入ると、南都奈良やがて大和一国の支配権を得るようになった。本来同寺の衆徒は太政官符によって20名と定められ、別当や三綱の補佐にあたることになっていた(官符衆徒)が、次第に一乗院・大乗院などといった有力な門跡が自己の発言力の増大のために国内の武士や名主などを御家人などと称して自己の衆徒に組み入れ、自院の学侶に率いさせて寺内や奈良の町の検断などに従事させた。また、神仏習合によって興福寺と一体化していた春日社の神人に組み入れられて同様の役割を果たすこともあり、こうした春日社神人を「国民」と呼んだ。(衆徒 フレッシュアイペディアより)